推薦のことば
福嶋 義光

 文部科学省は,2017年10月に「看護学教育モデル・コア・カリキュラム」を公表しました。看護師を養成する大学は,このコア・カリキュラムにしたがって教育内容を考えていくことになります。医師を養成する医学教育については,2001年にモデル・コア・カリキュラムが公表されていましたが,このコア・カリキュラムには遺伝学に関係する内容が乏しく,とくに医療の場で必要となる臨床遺伝学の記述は皆無でした。2016年の医学教育モデル・コア・カリキュラムの改訂に際し,意見を申し述べる機会があり,医学教育の中に臨床遺伝学の項目を設けるべきであることを主張した結果,「E 全身に及ぶ生理的的変化,病態,診断,治療」の第一項目に「遺伝医療・ゲノム医療」の章が設けられることになりました。その中に,「家系図を作成,評価(Bayesの定理,リスク評価)できる」という記載があります。驚くべきことですが,家系図が日本の医学教育に正式に取り入れられたのはこれが初めてです。
 私は今まで信州大学をはじめ,東京大学,北海道大学などいくつかの大学医学部で講義を行ってきました。講義の際には必ず「親と兄弟,どちらがあなたに遺伝的に近いか?」と尋ねるようにしています。そうすると,どの大学でも「親のほうが近い」と「兄弟のほうが近い」がほぼ半数ずつにわかれます。日本では高等学校までに,親と兄弟は一度近親で遺伝的には同じ近さであるという遺伝学の基礎を全く学んでいないことがわかります。医学教育および看護学教育で遺伝学の基礎を学ばなければならない理由がここにあります。
 2017年になって,ほとんど完成していた「看護学教育モデル・コア・カリキュラム」(案)についても意見が求められ,医療における遺伝学の事項を加えるべきであることを申し述べました。章立てや構成そのものに遺伝学の項目を新たに設けることはできませんでしたが,「疾病や障害の遺伝要因と環境要因について説明できる」,「ゲノムと染色体と遺伝子,遺伝の基本的機序を説明できる」,「ゲノムの多様性に基づく個体の多様性について概説できる」,「主な遺伝性疾患(単一遺伝子疾患,染色体異常,多因子疾患)を説明できる」などの文言が加えられました。遺伝学そのものではなく,また家系図についての記載がないことは残念ではありますが,看護教育の中にも遺伝学的素養が必要であることが明記されたことは画期的なことだと思います。
 私が勤務していた神奈川県立こども医療センター遺伝科の大先輩である千代豪昭先生が,この度,「メディカルスタッフのための家系図読本」を刊行されました。入口は家系図記載法のノウハウ本のようにみえますが,中を紐解いてみると,千代先生ご自身の人生経験と遺伝学・ゲノム学の進展の状況が複雑に絡み合った物語が展開されています。生涯変化せず血縁者とも共有されている遺伝情報・ゲノム情報の倫理的課題についても,実例をもとに遺伝学を深く学んでこられた千代先生のお考えが語られています。一人の遺伝医学研究者・遺伝医療実践者の思いがすべて詰まった哲学書という側面も感じられ,遺伝医学・遺伝医療を専門とする臨床遺伝専門医や認定遺伝カウンセラー®にも是非読んでいただきたいと思います。
 ヒトゲノム解析研究の成果がいよいよ医療の場で活かせる時代を迎え,わが国でもがん領域および難病領域を中心にゲノム医療の推進が国策として進められてきています。ゲノム医療とは,個人のゲノム情報に基づき,個々人の体質や病状に適した,より効果的・効率的な疾患の診断,治療,予防を行う医療を意味しています。ゲノム医療というと次世代シークエンサーを用いてDNA塩基配列を読み取るということをイメージされると思いますが,膨大なゲノム情報を理解するためには,DNA塩基配列を樹木の枝や葉にたとえると,樹木の幹の部分は遺伝学の理解ということになります。遺伝学の理解はすなわち家系情報,家系図を深く理解することであり,このことはゲノム医療の時代を迎えても極めて重要です。
 本書を手に取るきっかけは,看護師・助産師・保健師等の試験に合格するためかもしれませんが,冒頭の「看護学教育モデル・コア・カリキュラム」には,看護師に求められる能力として「収集した情報を統合して健康状態をアセスメントできる」ことが記載されています。看護師・助産師・保健師の方々は患者・家族とのファーストタッチの部分を担っています。その中で良好な信頼関係を築き,患者・家族から様々な情報を得て医療方針を考えていくことになります。患者・家族からの情報には当然,家系情報も含まれるはずなのですが,わが国では長い間,この点が欠如していました。本書をお読みになった方は,間違いなく家系情報を患者本人だけではなく血縁者・ご家族の疾病予防・健康増進のために役立てる能力を格段に高めることができるようになると確信しています。ゲノム医療の時代が到来したといっても家系情報を収集し,しっかりと家系図を作成することの重要性を忘れてはなりません。
 本書が看護師・助産師・保健師およびそれをめざす方々だけではなく,臨床遺伝専門医,認定遺伝カウンセラー®など遺伝医学の専門家,さらにはゲノム情報,遺伝情報を扱わざるを得なくなるすべての医療関係者に読んでいただくことで,わが国の医療がさらに発展することを願っています。