巻頭言
ICH 国際合意が切り拓く臨床開発の新時代
杉山雄一山下伸二栗原千絵子
 
 今世紀に入って,医薬品・医療機器,治療方法の革新をめぐる様々な議論が展開した。2000年から2003 年にかけてヒトゲノム全塩基配列解読が宣言され,2000年のES 細胞(embryonic stem cell胚性幹細胞)樹立,2006年のiPS 細胞(induced pluripotent stem cell人工多能性幹細胞)樹立などの幹細胞研究の目覚ましい成果が公表され,基礎研究の成果を治療法の革新へと応用する科学研究のあり方が,「トランスレーショナルリサーチ」,「レギュラトリーサイエンス」などのキーワードとともに議論されてきた。創薬開発の方法論は多種多様に展開し,候補化合物が目覚ましく増大する一方,一般社会の優れた治療法への希求,安全性確保・リスク回避への要請は高まり,医薬品の上市へと至るまでに求められる知識とその検証の手順が増幅し,成功確率の低迷と開発費用の増大が製薬業界を悩ませるようになった。こうした状況に立ち向かい,欧米諸国の行政当局,製薬業界,アカデミアは強力に連携し,開発ターゲットのプライオリティセッティング,医薬品開発戦略の革新のための新たな方法論の提示を行ってきた。マイクロドーズ臨床試験(MD 試験),PET 分子イメージングは,こうした技術革新の潮流の中で注目されてきた方法論である。
 この2 つの方法論を結ぶ共通のコンセプトは,臨床開発の初期よりヒトで医薬品候補化合物の性能を評価するというものである。MD 試験は,ごく微量な,薬理作用も副作用も起こさないと推定される用量の候補化合物を人体に投与して薬物動態に関する情報を得ることで,臨床開発の第Ⅰ相以降のプロセスを進めるかどうかの意思決定の根拠とするという試験デザインである。通常の第Ⅰ相からⅢ相に至るプロセスに新たな早期探索の相を加えることになるが,これによって上市に至る成功確率が向上することが予想される。PET 分子イメージングはMD 試験の分析方法の1 つとしても着目されるが,臨床開発の後期の相にまでわたり,薬物の人体での挙動を分子レベルで可視的に捉え,標的とする組織・臓器への集積,吸収や排泄の動きを検証することで,より確実な薬効評価のツールとして活用されるようになった。
 2004年,米国FDA はCritical Path 報告書を起点として,医薬品開発の成功確率の低迷を革新する戦略,新たな開発ターゲットの特定,PET 分子イメージングを含む評価技術の活用,公的資金の重点助成による開発ロードマップの明確化を行った。MD 試験を含む早期臨床開発の促進,PET 分子イメージング活用のためのガイダンスを次々と提案し,2009年までに最終化した。EU ではMD 試験についての政策文書に続き,MD 試験の有用性を検証する民間主導の研究プロジェクトを継承する形でEU 助成によるプロジェクトが実施された。
 こうした欧米諸国の動向を受けて,日本においても2008 年にMD 試験についてのガイダンスが公示された。日本のガイダンスの特徴は,MD試験実施の要件としての非臨床試験について述べた欧米のガイダンスとは異なり,放射性同位元素による標識の段階も含む製造基準や,臨床試験の実施体制にまで言及した包括的な指南書として構成されたことである。そして,MD 試験の分析方法として下記3 つの手法を挙げた。
① 放射性同位元素14C で標識した候補化合物を人体に投与し,検体をAMS(accelerator mass spectroscopy
加速器質量分析法)で分析,薬物動態学的な情報を得る。
② 放射性同位元素で標識しない候補化合物を人体に投与し, 検体をLC/MS/MS(liquid chromatograph/mass spectrometry/mass spectrometry
高感度液体クロマトグラフ質量分析計)で分析,薬物動態学的な情報を得る。
11C,13N,15O,18F などのポジトロン放出核種で標識した候補化合物を人体に投与し,PET(positron emission tomography
陽電子放射断層撮影法)で化合物の組織・臓器などへの分布についての情報を得る。
 さらに,MD 試験ガイダンスと連動して治験薬GMP を改正し,早期臨床開発やPET 分子イメージングの活用を促進しつつ安全性を確保するための方策を明確にした。
 2008年6月に至り,MD 試験を含む早期探索的臨床試験に必要な臨床試験の要件についての項目を新たに含んだICH-M3 ガイドライン改訂版が三極合意に至った。本ガイドラインは1997年に初版が作成され,臨床開発の各段階までに実施しておくべき非臨床試験の要件について定めたものであるが,これまで三極の要件の相違が目立つガイドラインであったが,申請に至るまでの要件の三極ハーモナイゼーションが今回の改訂で一気に進んだ。日米EU のみならずアジア・アフリカ地域をも含んでのグローバル同時開発の進展を反映したものである。新たに追加された第Ⅰ相試験の初期に行う早期探索臨床試験についても定義が明確化され,必要な非臨床試験も三極合意に至った。本ガイドラインは日本においても2010年2月通知化され,臨床開発の新時代がここに切り拓かれた。
 本書は,こうした臨床開発の新たな時代において注目されるMD 試験,PET 分子イメージング技術の最先端の研究動向,技術応用,倫理・規制の各方面について,第一線の研究者らによる論説を集大成した特集である。特に,編著者ら3 名は,NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)委託研究事業である「マイクロドーズ臨床試験を活用した革新的創薬技術の開発
薬物動態・薬効の定量的予測技術を基盤として」(NEDO MicroDose-PJ,プロジェクトリーダー杉山雄一)を主導していることから,本プロジェクトにおけるMD 試験,PET 分子イメージングの実用化に向けた研究開発の最新動向を,各個別領域を担当する研究者に綴ってもらっている。さらに,NEDO によるもう1 つの大型プロジェクトである,アルツハイマー病の進行と治療薬の効果を評価するための画像・バイオマーカー指標の確立とPET 分子イメージング診断技術の標準化をめざすAlzheimer's Disease Neuroimaging Initiative(ADNI)(プロジェクトリーダー岩坪威),また杉山がプロジェクトオフィサーから今年度プロジェクトディレクターとなり包括的な研究戦略推進を担うこととなった文部科学省の分子イメージング研究プロジェクトなどについても最新動向を伝える特集とした。
 本書では,MD 試験,PET 分子イメージングの世界に先駆けた研究動向を伝えることになるが,こうした医薬品評価に関する科学技術を活用して,新たな創薬シーズの臨床開発プロジェクトも着実に立ち上がりつつある。本書で紹介する様々な研究開発プロジェクトが今後も発信し続ける新たな成果についても,注目していただければ幸いである。

謝辞
本特集の論説中の研究成果の一部は,NEDO( 新エネルギー・産業技術総合開発機構)「基礎研究から臨床研究への橋渡し促進技術開発」及び文部科学省「分子イメージング研究プロジェクト」の研究事業によるものである。ここに深く謝意を表する。