「ELSI・PPI最前線」に寄せて

武藤香織
1)・長神風二2)・吉田雅幸3)
      1)東京大学医科学研究所 ヒトゲノム解析センター 公共政策研究分野
      2)東北大学 東北メディカル・メガバンク機構 広報・企画部門
      3)東京科学大学大学院医歯学総合研究科 先進倫理医科学分野

 季刊誌「遺伝子医学」の通巻50号・復刊25号という節目にあたり,特集「ELSI・PPI最前線」を編む機会を与えていただいたことを深く感謝したい。
 ELSIとは,Ethical, Legal and Social Issues/Implicationsの頭文字をとったものであり,日本では「倫理的・法的(または法制度的)・社会的課題」と訳されることが多い。この言葉の由来は,1990年に米国でヒトゲノムの解析開始と同時に設けられた「ELSI研究プログラム」である(Ethical, Legal and Social Implications Research Program)。しかし,米国では,現在も国立ヒトゲノム研究所を通じて定期的に研究事業が公募されるだけでなく,数ヵ所のELSI研究拠点が指定されている。ELSI研究プログラムの対象は幅広く,医療・ケアの制度設計や提供体制などの政策から,個人,家族,コミュニティとその帰属をめぐる課題,人間であることの意味などの基本的な概念,ゲノム研究と日常生活との相互作用などに取り組まれている1)
 日本では,主に研究ガバナンスにおいて「ELSI」という用語が活用されてきたが,政府によるELSI研究の振興は小規模かつ散発的であった。その貴重な恩恵を受け,特集コーディネーターの3名は,日本医療研究開発機構(AMED)ゲノム医療実現バイオバンク利活用プログラム「ゲノム医療・研究推進社会に向けた試料・情報の利活用とPPI推進に関する研究開発」(研究開発代表者:東京科学大学吉田雅幸)を運営している。この事業では,患者・市民委員をはじめとする様々なステークホルダーの支援を受けながら,ゲノム研究・医療における患者・市民参画(patient and public involvement:PPI)を取り巻く課題を検討してきた。PPIは,研究・医療のあらゆる段階に患者・市民を巻き込み,その視点を反映することで,研究や医療の質を向上させ,透明性を高める取り組みのことである2)。本特集は,この事業の成果の一部でもある。
 以上のような経緯から,本特集ではELSIの中でもS(社会的課題)に焦点を当て,これまで日本語でまとまって読める機会がなかった話題を厳選し,三つのパートに分けて構成している。紙幅の関係で,個人情報保護法や二次的所見の説明など,すでに優れた文献が蓄積されているトピックは敢えて取り上げていない。 「ゲノム医療・研究をめぐる広報と報道」では,ゲノム研究の成果を伝えるプレスリリースを取り上げるとともに,プレスリリースを起点として公共放送(テレビ)や全国に配信される記事がつくられる際の課題を紹介する。第一線の記者の奮闘ぶりとともに,一般向けに研究成果をまとめる際の留意点を知っていただきたい。 総論でも取り上げている,「ゲノム研究・医療への患者参画/市民参画」では,希少疾患,がん,住民コホートなど,日本のゲノム研究でPPIに積極的に取り組んできた方々から,その試行錯誤を紹介する。今後,患者・市民との協働を進めたい方の参考にしていただきたい。また,ゲノム・遺伝の差別をめぐり,がんや難病の立場から是正を望む声も届ける。
 「ゲノム研究における公正・包摂・多様性」では,国際的に議論が進むトピックとして,ベネフィットシェアリング,データの多様性確保,AIの活用を取り上げる。いずれも日本での議論は尽くされていないが,患者・市民を巻き込んだ議論と対応が求められる領域である。
 本特集が,今まで読めなかった話題を気軽に読めたと感じていただける内容になっていれば幸いである。そして,本特集で取り上げられた様々な議論に対するELSI研究への一層の投資が進むことを願いたい。
参考文献
1) National Human Genome Research Institute : Ethical, Legal and Social Implications Research Programウェブサイト
https://www.genome.gov/Funded-Programs-Projects/ELSI-Research-Program-ethical-legal-social-implications
2) 日本医療研究開発機構 : 患者・市民参画(PPI)ガイドブック 〜患者と研究者の協働を目指す第一歩として〜, 2019.
https://www.amed.go.jp/content/000055212.pdf