推薦のことば
「私の生命倫理学ノート」出版に寄せて
お茶の水女子大学長  室伏 きみ子

 千代豪昭先生のご著書「私の生命倫理学ノート」の出版にあたり、お茶の水女子大学に設置されたわが国初の大学院(博士前・後期)遺伝カウンセラー養成課程の初代教授として千代先生をお招きし、優れた遺伝カウンセラーの育成と新たな学問分野の開拓に大きなお力添えをいただきました立場から、一文を寄せさせていただきます。
 
 近年の人類遺伝学やゲノム医学の進展に伴って、個人の遺伝情報を解析し、それぞれに適切な医療を施す個別化医療が日本でも開始されています。また、妊婦の血液を用いることで、簡便に胎児の染色体異常(ダウン症など)や遺伝性疾患を一定の確率で判定できる新型の出生前検査技術が開発され、認定を受けた医療機関のみで実施されるようになりました。その一方で、科学的・医学的・倫理的な裏づけが不足した状況で、規制する法律も作られないままに、遺伝子診断などについての商業的な動きも大きくなっています。しかし、これらの技術が無制限に広がることは、遺伝性疾患などに対する偏見・差別を増大させる可能性もあり、生命の選別にもつながると危惧する声も少なくなく、遺伝カウンセリングが果たす役割はますます大きくなっています。
 
 長い間、染色体異常や遺伝性疾患には特別なものというイメージが付きまとい、多くの患者が社会からの偏見に苦しめられてきた歴史があります。しかし遺伝子や遺伝性疾患に関する研究が進むに従って、がんや糖尿病など多くの病気にも遺伝的要因が関わっていることも明らかになりました。健常人にも遺伝子の変異は起こりえますし、両親に変異がなくても遺伝性疾患の子どもが生まれる可能性があることもわかってきています。でも、人々の間に遺伝についての十分な理解がない現状で簡単に検査をすることが、当事者にとって本当に良いことなのか、よく考える必要があります。つまり、治療法のない病気になることが明らかになることで、その人が大きな精神的ダメージを受け、人生が大きく変わってしまうことや、家族や血縁者に思わぬ影響を及ぼすことも考えられ、また安易な堕胎につながる可能性もあって、倫理的な問題が起こることが容易に想像できます。
 問題を抱えている人々やその家族に対して、検査によって何が明らかになり、どんな問題が生じるかについての医学的情報を、正確かつわかりやすい形で提供することが必須であり、また発症した場合に備えて、本人や家族に対して、心理的・社会的なサポートを含めた適切な情報を伝え、納得する医療を受けられるようにサポートすることが重要です。そういった要請に対して、適切に対応する技術が「遺伝カウンセリング」であり、それを担う人材が「遺伝カウンセラー」です。
 
 私は40年も前にニューヨークに留学していましたが、その折に、医師でない「遺伝カウンセラー」という専門的かつ高度な職業があることを知り、それ以来、日本でも遺伝カウンセリングとそれを担う遺伝カウンセラーが必要になると考えてきました。その後25年もの時間が経ちましたが、国立大学の法人化を機に、日本にも遺伝カウンセラーを養成する大学院課程を創りたいとの想いをもって、欧米の遺伝カウンセラーの方々のお話を伺ったり、教育制度を調べたりしてきました。そして、専門職としての非医師の遺伝カウンセラーの重要性を確信し、当時の本田和子学長のご理解の下で、東京女子医科大学の先生方のご協力を得て、2004年4月に、お茶の水女子大学大学院に「遺伝カウンセリングコース(博士前・後期)」を設置しました。幸い、文部科学省・科学技術振興調整費の支援を受けることができ、基礎遺伝学/同実習、人類遺伝学/同実習、遺伝医学、基礎医学、遺伝カウンセリング学/同実習、生命倫理・医療倫理学、心理学、社会学など、幅広い専門教育の実施が可能になりました。
 お茶の水女子大学の生命科学や心理学・社会学などを専門とする教員が総力を挙げて関わると同時に、わが国の遺伝カウンセラー養成の拠点となることをめざして、当時、わが国の認定遺伝カウンセラーの養成と制度化を導かれた千代豪昭先生(当時、大阪府立看護大学教授)に、本課程の初代教授として着任いただき、日本人で唯一、米国で遺伝カウンセラーの資格を取得された田村智英子さんに助教授をお願いしました。さらに、様々な領域をカバーする数名の講師の方々にも参加いただいて、日本初の大学院修士・博士課程における5年制の遺伝カウンセラー養成課程が立ち上がりました。
 
 当時すでに欧米では遺伝カウンセラーは専門職種として確立されており、アメリカでは29の大学院に養成コースがあって、2000人余が医療現場で活躍していました。わが国でも、15年前のお茶の水女子大学大学院での課程設置を契機に、これまでに15大学の大学院に養成課程が設置されており、2017年現在で約220名の認定遺伝カウンセラーが活躍しています(その30%がお茶の水女子大学の卒業生です)。お茶の水女子大学の養成課程は、実務者を育てるのと同時に、指導者・教育者を育成することを目的としていましたので、最初は上記のように、5年一貫教育という体制で出発しましたが、その後に設置された大学では2年制の課程が作られたことから、設立8年目から「2年+3年」という形になり、現在に至っています。すでに博士号を取得している卒業生が6名、そのうち3名が大学で教鞭を執っており、指導者・教育者も育っています。こうして、お茶の水女子大学が時代の流れを見越して、遺伝カウンセラー養成課程を立ち上げ、わが国の遺伝医療における遺伝カウンセリングを牽引してきたことは、私たち関係者にとって大きな誇りにもなっています。
 
 ただ、高度な知識と技術を身につけ、倫理的・社会的な広い教育を受けた、優れた遺伝カウンセラーを国家資格化したいと、日本学術会議会長でいらっしゃった故・金澤一郎先生をはじめとして、多くのゲノム医学に関わる先生方が努力してきて下さいましたが、いまだ国家資格化されていない現状があります。
 
 そんな状況下で、前述のように、ゲノム医学の進展に伴って、遺伝カウンセリングの必要性が広く認識されるようになって、遺伝カウンセラーの需要が急激に高まり、その人数の確保が急務になっています。新型出生前診断の実施などに伴い、医療機関や検査企業などから引く手あまたの状況となっているうえに、教育・研究機関や行政の場でも需要がますます高まることが予想されます。
 そして昨今、人材不足を打開するために、医療従事者への簡単な研修や短期的なコースの立ち上げによって、促成栽培のように遺伝カウンセラーを養成しようとする動きもあり、これまで優れた人材を育て社会に輩出するために、またわが国のゲノム医学が間違った道を歩まないように努力を重ねてきた関係者たちは、この職業の質保証や社会への波及力の点からも、危機感を覚えています。
 欧米と比較して、わが国では、遺伝カウンセラーと遺伝カウンセリング実施施設の数はきわめて少なく、また人材も施設も都市部に偏在しているのが現実です。促成栽培でない質の高い人材育成を進めるためには、人類の将来をも左右するかもしれないその重要性に鑑みて、国が真剣に支えることを考えて欲しいと思いますし、遺伝カウンセラーの国家資格化も必要です。一日も早く、わが国のすべての地域で、すべての人々が、必要に応じて信頼できる遺伝カウンセリングを受けられるようになる社会がくることを願ってやみません。
 
 なお、千代先生はお茶の水女子大学における養成課程立ち上げの最初の5年間にわたって、学生たちの教育に全力を注いで下さいました。そして、学生たちが遺伝カウンセリングを学ぶにあたって、生命倫理を学ぶことの重要性を常に説いていらっしゃいました。その後も、社会におけるゲノム医療への理解増進のために努力を続けていらっしゃいます。
 本書には、ご自身の経験に基づいて、お茶の水女子大学で学生たちに講義して下さった内容も含まれています。是非、多くの方々に手にとっていただき、人類の将来のためにも、生命倫理を基盤とした優れた遺伝カウンセラーを社会に輩出し続けることの重要性に想いを馳せ、遺伝カウンセラーたちを支援していただきたいと思っています。