序文

 本書は遺伝子医学MOOK別冊,シリーズ「最新遺伝医学研究と遺伝カウンセリング」の第3弾として企画されたものである。20世紀の遺伝医学は,染色体異常や先天代謝異常のような新生児疾患に始まり,1980〜90年代にはPCR法の開発に代表される遺伝子工学の進歩により,多くの単一遺伝子疾患の原因遺伝子が同定された。まさにDNAという物質が秘める謎を分子生物学的に解きほぐすことにより,メンデル遺伝病の分子遺伝学が開花した時期であったといえる。21世紀に入ると,ワトソンとクリックの歴史的なDNA二重らせんの論文からちょうど50年を経た2003年にはヒトゲノムプロジェクトの完成が高らかに宣言され,遺伝医学は世代を超えた継承(縦糸)に加えて,個体の多様性(横糸)の研究に大きく踏み出すことが可能になった。さらにゲノムの多様性の研究はゲノムワイド関連解析,そして次世代シーケンサーの登場によって劇的な進歩を遂げ,個々の遺伝子の多様性のみならず,ゲノム全体のよりダイナミックな多様性,さらにはトランスクリプトーム,メタボロームといった生物現象全体の多様性を包括的にとらえることも可能になってきた。2015年1月に,当時のオバマ米国大統領は一般教書演説の中で“Precision Medicine Initiative”を発表した。これは従来の平均的・最大公約数的な医療から,個人の遺伝的多様性,環境,生活習慣も含めた個々の違いに基づいた,まさに個別の医療(予防,治療)を実現するための取り組みで,100万人以上の参加者からなる全米コホートを創設するものである。遺伝医学を含めた医療全体が,20世紀の物質の時代から21世紀の情報の時代に入ったことを象徴する事業といえる。
 本書はこうした新しいゲノム医科学の時代の最先端を行く研究とその医療実装への取り組みを幅広く紹介し,読者にその躍動を実感していただくことを目的としている。まず第1章では多因子疾患と遺伝学の総論として,わが国のゲノム医科学のリーダーの先生方にこの領域全体を俯瞰する総説を執筆していただいた。それに続く各論では,第2章の新生児〜小児期と第3章の成人期に分けて,主な多因子疾患の最新の遺伝医学研究や遺伝医学と結びついた診療について,それぞれの領域の第一人者の先生方に紹介していただいた。しばらく前にはまだブラックボックスの中にあった,これら疾患の遺伝的背景を解明する精力的な研究の現状を理解していただけることと思う。
 遺伝医療の現場では,メンデル遺伝病か多因子疾患かを問わず,遺伝の問題で不安や疑問を抱えるクライエントが遺伝カウンセリングに訪れる。多因子疾患の遺伝カウンセリングでは単一遺伝子疾患とは異なる情報提供の難しさ,意思決定支援の難しさがあるが,第4章ではこうした多因子疾患の遺伝カウンセリング経験が豊富な臨床遺伝専門医や認定遺伝カウンセラーの方々に,代表的な多因子疾患の遺伝カウンセリングについて,ケーススタディの形で紹介していただいた。理念や方法を解説するスタイルとは異なり,読者にも実際の遺伝カウンセリングの状況をイメージしていただけると思う。
 現在の網羅的なゲノム解析で得られる情報はサンガー法によって個々の遺伝子を解析していた時代とは桁違いに膨大であり,この膨大な情報を適切に管理し,意味づけ,臨床や創薬に結びつけていくためには全地球的な国際協調が必要である。また機微にわたる個人の遺伝情報がデジタル化されて集積・活用されるには,情報提供者である個人を思わぬ不利益から守る取り組みも極めて重要である。さらに,DNAは医療機関を介さずとも唾液や毛髪などからも簡単に得られることから,こうした検体を使用して医療を介さずにゲノム解析サービスを行ういわゆるdirect-to-consumer遺伝子検査ビジネスもそのマーケットを広げている。こうした様々な問題については第5章で専門の先生方に解説していただいた。
 本シリーズが,多くのゲノム研究者,診療医,遺伝医療に関わる多くの医療者の方々にとって有用なものとなることを願ってやまない。

札幌医科大学
櫻井 晃洋