序文

 本書は,遺伝子医学MOOK別冊,シリーズ「最新遺伝医学研究と遺伝カウンセリング」の中で,精神・神経疾患に焦点を当て,臨床家,研究者,カウンセラーなどのために書かれたものである。精神・神経疾患研究・診療および遺伝カウンセリングの分野でも,日々,新たな技術や情報が報告されていると言っても過言ではない。そこで,各担当者には解析技術の進歩やそれに伴う新規知見など,新しい情報に特に留意して総論,各論を詳述していただいた。
 21世紀に入り,ゲノム科学の進展が医学・生物学研究にパラダイムシフトをもたらしている。2000年にヒトゲノム塩基配列の概要版が,2003年には完成版が公開され,それらを利用した種々の技術革新が起こった。dbSNPやHapMap計画などの情報基盤や数十万種のSNP(一塩基多型)を解析できる技術基盤の整備により,SNPをマーカーとして利用し,ゲノムワイド関連解析(GWAS)が2007年頃より実用的な戦略となり,疾患感受性遺伝子の発見が相次いだ。さらに次世代シークエンス技術(next-generation sequencing:NGS)が実用化され,解析能力の進歩により個人のゲノム配列が早く決定できるようになった。
遺伝性神経疾患の研究は先天代謝異常症の解析から始まり,連鎖解析とポジショナルクローニング法の確立,次世代シークエンサーの登場により大きく発展した。また孤発性神経疾患の研究はGWASに基づく疾患感受性遺伝子の研究が精力的に行われているが,疾患発症に対する影響度の大きい遺伝的要因の解明は困難を極めており,missing heritabilityとして研究上の大きな課題となっているが,common disease-multiple rare variant仮説に基づいた遺伝子探索が行われ,成果が得られはじめている。
 一方,精神疾患に関しては,近年のゲノム解析技術の進展を背景に,精神疾患の発症に関与する遺伝要因が多数同定されつつある。その結果,精神疾患の遺伝的異質性が高いことに加え,精神疾患関連ゲノム変異が不完全浸透と多面発現的効果を示すこと,進化的に新しい稀な変異の重要性,ニューロンにおける体細胞変異の関与が明らかになりつつある。従来の症候学に基づいて定義される精神疾患を,ゲノム変異の観点から捉え直すことで臨床・基礎研究も影響を受けつつある。
 このような状況の中で,遺伝性疾患研究・診療にも変革の波が押し寄せている。次世代シークエンサーにより,エクソンをすべて解析する全エクソーム塩基配列解析により新たな遺伝性疾患の原因遺伝子が多数発見され,さらに原因不明である遺伝性疾患の患者を診療した際に,原因遺伝子探索を目的に全エクソームまたは全ゲノム塩基配列解析を臨床検査(クリニカルエクソーム)として行う動きも出てきている。一方で,これらの医学的進展に伴い,例えば2次的所見をどのように扱うのかなど,早急に対応が求められる問題が生じている。
 そこで本書は,精神・神経疾患研究・診療と遺伝カウンセリングについて,特に新しい知見に留意した。第1章では,総論として知っておいてほしいこと,歴史的背景,ゲノムワイド関連解析,次世代シークエンサーや次々世代シークエンサーとクリニカルシークエンシング,ゲノムインフォマティクス,ゲノム編集,iPS細胞を用いた疾患解析と創薬研究,光遺伝学,PETイメージング,エピジェネティクス,革新脳とマーモセット,レジストリーとリソースバンク,新規治療法との開発と関連制度など,遺伝医学のみに関わらず精神・神経疾患での最新テクノロジーまでを含み解説していただいた。第2章では脳血管障害,アルツハイマー病,パーキンソン病,気分障害,統合失調症などの他に,心理的形質の双生児研究まで含めて,代表的な精神・神経疾患の遺伝医学研究・診療の各論を詳述していただいた。
 遺伝カウンセリングの重要性は広く分野を超えて共通するが,さらに精神・神経疾患は進行性で治療が困難なものが多く,成人期の発症でクライエントの不安だけでなく,発症前診断など家族を巻き込んだ対応が必要になることも多いという特殊性がある。第3章では,精神神経遺伝カウンセリングの各論について,ケーススタディを駆使して詳述していただいた。さらに第4章で患者登録,患者会,難病支援制度,ELSIなど倫理的・法的・社会的問題について解説いただいた。
 読者には本書が提供する新たな知見を含めた情報の全体を俯瞰していただくことを希望したい。本書が精神・神経疾患に関わる臨床家・研究者・カウンセラーの方々に手助けとなれば望外の喜びである。

神戸大学
戸田 達史