序文

 本書は,遺伝子医学MOOK別冊,シリーズ「最新遺伝医学研究と遺伝カウンセリング」の中で,遺伝性腫瘍・家族性腫瘍に焦点を当て,臨床家,研究者,カウンセラーなどのために書かれたものである。遺伝性/家族性腫瘍研究・診療および遺伝カウンセリングの分野でも,日々,新たな技術や情報が報告されていると言っても過言ではない。そこで,各ご担当者には解析技術の進歩やそれに伴う新規知見など,新しい情報に特に留意して総論,各論を詳述していただいた。
21世紀に入り,ゲノム科学の進展が,医学・生物学研究にパラダイムシフトをもたらしている。2000年にヒトゲノム塩基配列の概要版が,2003年には完成版が公開され,それらを利用した種々の技術革新が起こった。マイクロアレイによるトランスクリプトーム解析や質量分析計によるプロテオーム解析などゲノムの網羅的解析技術の登場である。さらに2007年に入り,次世代シークエンス技術(next-generation sequencing:NGS)が実用化され,解析能力の驚天動地な進歩により個人のゲノム配列やがんそのもののゲノム配列(体細胞情報)が,安価で速く決定できるようになった。その結果,ゲノムを俯瞰する「ビッグデータ」が整備され,ヒトゲノム上に存在するSNP(single nucleotide polymorphism/一塩基多型)をマーカーとして利用し,疾病に関連する遺伝的因子を解明するゲノムワイド関連解析(genome-wide association study:GWAS)が進み,疾患の易罹患性に関連する多くの遺伝子が発見された。また2012年頃から,The Cancer Genome Atlas(TCGA)など,大型がんゲノムプロジェクトの成果が相次いで報告され,がんゲノムの変異情報から,発がんメカニズムやがんの進化・多様性に関わる多くの新たな知見が見出され,臨床では,がんの遺伝子変異を網羅的に解析し,その患者に有効な抗がん薬を探索する「がんクリニカルシークエンス」の実施へと躍進を遂げている。
 このような状況の中で,遺伝性疾患研究・診療にも大きな変革の波が押し寄せている。次世代シークエンサーにより,ゲノム中の遺伝子をコードする領域エクソンをすべて解析する全エクソーム塩基配列解析(whole exome sequencing:WES)は,現在,原因遺伝子が不明である遺伝性疾患の原因解明研究において第一選択技術となっている。それらの研究により,新たな遺伝性疾患の原因遺伝子が多数発見され,さらに原因不明である先天性/遺伝性疾患の患者を診療した際に,原因遺伝子探索を目的に全エクソームまたは全ゲノム塩基配列解析を臨床検査として行う動きも出てきている。一方で,これらの医学的進展に伴い,例えば偶発的所見(最近は2次的所見という言葉が推奨されている)を日本ではどのように扱うのかなど,早急に対応が求められる問題が生じている。さらに,遺伝性乳がん研究が新たな課題を示した。次世代シークエンス技術やゲノムワイド関連解析の成果から,家系内に乳がんが集積する症例(このような症例を家族性乳がんと呼ぶことにする)の原因遺伝子が3グループに分類された。Ⅰ.高度罹患性遺伝子グループ(BRCA1/2,p53など),Ⅱ.中等度罹患性遺伝子グループ(CHEK2, PALB2など),Ⅲ.低度罹患性遺伝子グループ(FGFR2, TOX3など)である。ⅠおよびⅡグループは,シークエンスにより発見された原因遺伝子であり,単一遺伝子の変異が原因と判断される(このような症例を遺伝性乳がんと呼ぶことにする)。Ⅲグループはゲノムワイド関連解析から発見され,いくつかの因子(多因子)が重なった時,発症リスクが大きく増大する家族性乳がんの原因である。また,ⅡとⅢに属する遺伝子が重なり発症することも推測される。このように臨床的に類似した家族性乳がんでも,種々の原因遺伝子によるものがあり,また単一遺伝子疾患(遺伝性乳がん)と多因子疾患が混在している。このような遺伝性/家族性乳がんの実態が明らかにされ,他の遺伝性/家族性腫瘍でも程度に差はあるものの,その実態は現在の理解より複雑であることが予想される。また,この家族性乳がんの実態解明に伴い,遺伝子検査として,現在,BRCA1/2遺伝子に加え,その他の複数の原因遺伝子候補を含む遺伝子パネルを用いる動きがある。精密な情報収集および正確な分析のためには必要な流れであるが,重要なことは,この新たな動きを医療者はもちろん,患者およびその家族に十分に理解していただくことである。
 前述のごとく遺伝性/家族性腫瘍研究および診療に日進月歩の変革が押し寄せている現状において,それらの意義を理解・選択し,遺伝医療とがん診療をより有機的に連携させることによって,遺伝性/家族性腫瘍診療を精度の高い充実したものへ進化させることが医療者の責務である。特に本分野においては,生命科学の進歩を医療に応用する場合に,倫理的対応および患者家族への説明が極めて重要である。そこで本書は,遺伝性/家族性腫瘍研究・診療と遺伝カウンセリングについて,特に新規知見に留意し,第1章では総論を,第2章では遺伝性/家族性腫瘍研究・診療の各論を詳述していただき,そして遺伝カウンセリングの重要性を鑑み,第3章でがん遺伝カウンセリングの各論について遺伝カウンセリング研究を含めて,また第4章では,遺伝性/家族性腫瘍研究・診療の倫理的問題について詳述していただいた。遺伝性/家族性腫瘍に関わる臨床家・研究者・カウンセラーの方々に,本書が提供する新たな知見を含めた情報の全体を眺めていただき,少しでも各位が業務・研究を充実させる手助けになることを願っている。

東京医科歯科大学
三木 義男