序文
  

 本書は「創薬インフォマティクス」という言葉をタイトルにもつ初めての書籍である。創薬インフォマティクスとは,文字どおり創薬のためのインフォマティクス,創薬応用に特化した情報科学技術を指す。
 DNAシークエンサー,マイクロアレイ,分子イメージング,X線結晶解析技術など,近年の計測技術の目覚ましい進展に伴い,これら多種多様な計測データを解析する手段としてコンピュータは欠かせないものになっている。医薬品開発現場でも,これらの先端計測技術を駆使して適切なデータを計測し,それらを的確に解析することよって,いかに医薬品へと結びつけていくかということが大きな課題となっている。コンピュータ計算は,この課題を解決するための必須手段の1つであり,最近ではコンピュータを用いて創薬をめざすことを総称して「インシリコ創薬(in silico 創薬)」と呼ばれている。すなわちインシリコ創薬とは,創薬過程で用いられる様々な先端計測技術を通して得られた多種多様な計測データをもとに,コンピュータを駆使して医薬品という目的物に一点集中させる創薬計算技術といえる。
 様々な見解があると思われるが,「インシリコ創薬」とは,「創薬インフォマティクス」,「薬剤分子モデリング」,「生体(病態)シミュレーション」の3つの柱から構成され,これらが有機的に連携することに真の意味があると編者は考えている。したがって,本書では「創薬インフォマティクス」を中心に据えながら,「薬剤分子モデリング」と「生体(病態)シミュレーション」の計算技術に関しても重要なものは章立てすることにした。医薬品開発は,創薬の標的タンパク質探索からリード化合物探索を経て臨床段階に至る非常に多岐にわたるものであるが,本書の章立てはできるかぎり医薬品開発のプロセスに沿うように配置している。したがって本書を通読すれば,医薬品開発に用いられるすべての最新計算技術を俯瞰的に感じ取れるであろう。
 また本書の大きな特徴として,これまでの創薬計算系の書籍の多くが理論的な解説に重きを置いたものであったことに対し,本書では創薬現場での実践的な利用を重視したソフトウエアの紹介や具体的な使い方を中心としたマニュアル的書籍をめざした。計算科学分野において,理論を軽視することはその真髄を失いかねないことであるが,計算に不慣れな多くの読者にも創薬計算技術の素晴らしさとその可能性を広く知ってもらうために「習うより慣れろ」の精神を優先することにした。なお,各計算技術の理論的背景を理解したい読者は,各章の参考文献をご一読いただきたい。
 最後に,各章をご担当いただいた著者の先生方(各分野を牽引される世界的に有名なアカデミアの先輩方,ソフトを開発しこの分野を盛り立てるIT企業の方々,ソフトを駆使し実際に創薬に奮闘される製薬会社の方々)に,この場をお借りして心より御礼申し上げたい。また,編者と多くの著者との日々の研究交流の場を提供してくれた日本学術振興会・最先端次世代研究開発支援プログラム「新薬創出を加速化するインシリコ創薬基盤の確立」,および文部科学省・科学技術研究費補助金(新学術領域研究)「統合的多階層生体機能学領域の確立とその応用」に感謝申し上げる。一般に,医薬品開発の成功確率は約15000分の1,開発期間十数年,開発費数百億円と言われている。これらの劇的効率化を実現する鍵は,「創薬インフォマティクス」を中心とした総合的なインシリコ創薬基盤の構築による医薬品開発プロセスの確度向上と高速化にあると編者は確信している。本書をきっかけに,わが国の創薬力がより一層高まり,病なき健康立国の実現に資することを心から願う。

京都大学大学院薬学研究科 奥野恭史