序文  「脳内環境辞典」発刊にあたって
 
 「脳内環境」という言葉は,新学術領域「脳内環境−恒常性維持機構とその破綻」を立案する際,コアメンバーの議論の末に生まれた造語です。神経変性疾患を理解するうえで神経細胞だけでなく,グリア細胞をはじめとする神経細胞を取り巻く環境にも目を向けなければならない,いや,脳内の環境こそが疾患研究にブレークスルーを生むうえで重要ではないかという考えから生まれたタイトルでした。最近は新学術領域「脳内環境」に関わった以外の先生方のご講演などでも「脳内環境」という言葉が使われることがあり,病態神経科学の領域で市民権を得つつあるのを嬉しく感じています。「脳内環境」の生みの親であるコアメンバーはのちに計画班員となった山中宏二先生(名古屋大学),木山博資先生(名古屋大学),樋口真人先生(現・量子科学技術研究開発機構),服部信孝先生(順天堂大学),内山安男先生(順天堂大学),川上秀史先生(広島大学),内匠 透先生(理研脳センター),三澤日出巳先生(慶応大学),漆谷 真先生(現・滋賀医科大学),加藤英政先生(現・愛媛大学)の諸氏です。
2011〜2015年度までの5年間,「脳内環境」はコアメンバーに加えて,多くのわが国のトップクラスの神経科学者が公募班員として参加され,数多くの成果を生みました。それと同時に,本領域は斬新な発想を生む議論と共同研究の種を提供するサロンとしての機能を果たしたと自負しています。
また領域アドバイザーを,国内から金澤一郎先生(故人,国際医療福祉大学),田中啓二先生(東京都医学研究機構),岡野栄之先生(慶応大学),海外からJean-Pierre Julien 教授(Laval University, Canada),Gena Raivich教授(University College of London, UK)といったこの領域の権威にお願いしました。大所高所から適確なご指導を頂戴したことに深く感謝申し上げます。
 さて,「脳内環境」の目的について,ホームページの「はじめに」で,「新学術領域『脳内環境』のめざすもの」と題して書いていますので,下記に引用します。

 これまでの脳神経科学の研究の主役はニューロンでした。たとえばアルツハイマー病やパーキンソン病をはじめとする神経変性疾患では,「なぜニューロンが死ぬのか」という問題に研究の焦点があてられ,その過程で,異常タンパク質の蓄積,オルガネラの機能障害などの神経変性メカニズムが明らかになってきました。
しかし,いったん始まった変性過程がどのように進行するのか,なぜ病変が一か所にとどまらずに広がっていくのかが追求された結果,グリア細胞が関わる炎症の役割や,神経細胞から周囲の細胞への変性タンパク質の伝播という予想外の生命現象が新たに見出されました。つまり,これまで脇役と考えられていたグリア細胞や,ニューロンと周囲の細胞の相互作用の重要性が認識されるようになったのです。
 本領域ではこのような脳内の細胞間相互作用によって形成・維持される「脳内環境」の解明に焦点を当てます。「脳内環境」の理解には,グリア神経生物学,神経発生・再生医学,神経内分泌学等の基礎神経科学や,細胞・組織・個体レベルでの分子イメージングの手法が不可欠です。本領域では「脳は多彩な細胞群からなるコミュニティーである」との共通認識のもと,基礎神経科学者と疾患研究者が積極的に共同研究を行い,「脳内環境」がいかにニューロンの健全性を保っているかを明らかにします。
同時にこれまでニューロンの解析だけでは理解できなかった脳内環境の破綻により生ずる精神・神経疾患の病態を解明し,新たな発想に基づく疾患バイオマーカー同定や治療戦略創出を行います。

 新学術領域「脳内環境」は,5年間の活動でこのような目標に着実に近づくとともに,「脳内環境学」という新たな学問領域の創生を行いました。
 「脳内環境辞典」は,「脳内環境」の計画班員,公募班員がその成果を中心に,脳内環境学の現在の到達点についてわかりやすく解説する内容になっています。本書が病態神経科学に興味を持たれる学生や研究者の方々のお役に立ち,読者の中から新たな脳内環境学の担い手が誕生し,この領域がますます発展することを願います。


新学術領域「脳内環境」領域代表,京都大学医学研究科臨床神経学教授
高橋良輔