序文
    ペプチド研究の新時代
  

 
「ペプチドは薬にならない」と言われて久しい。ペプチドは身体に隈なく存在し,細胞間の情報伝達から生体の恒常性維持までに寄与し,その重要度はますます強く認識されているにもかかわらず,である。確かにペプチドは血中半減期が数分程度と極めて短く,経口投与では分解され吸収,血中移行効率も極めて悪く,静脈内投与でも脳内へはほとんど移行しない。合成にコストが掛かるうえに精製が困難で,高純度品の安定供給が難しく,誘導体化するにも化合物のようにリードからの系統的デザイン,合成も困難である。
 しかし,生体がわざわざ分解を受けやすいペプチドを極少量合成・分泌して巧みに使用している事実は,現在のわれわれから見て多々ある不利や困難が生体にとり逆に有利な点でもあることを示唆し,人知の及ばない真理が隠されている可能性が大である。例えば,創薬ターゲットとして注目を浴びているグレリンにはオクタン酸とセリン水酸基のエステル結合が存在し,エステラーゼで容易に加水分解を受けて受容体結合活性を消失する。この場合,生体はすぐに失活することを前提に生合成しているのであろう。グレリンはオーファン受容体GHS-Rの内因性リガンドとして難産の末に発見されたが,発見を困難にした主因もこのオクタン酸エステルにある。しかし,強力なアゴニストを連続投与すると受容体が減少,効果が減弱することから,構造と活性発現が表裏の関係でデザインされていると考えられる。血中濃度が日に4回ピークを形成し,3回はインスリンと対応,逆相関することは,食事,栄養の吸収,代謝や生体リズムと結びついていることを如実に示している。グレリンの多様な生理作用を理解し医薬品として使用するには,不安定な構造も合わせて理解することが必要である。
 無論,生理活性ペプチドのすべてがグレリンのように短時間作動物としてデザインされているわけではない。心不全患者において,心臓でのナトリウム利尿ペプチドの発現・産生は亢進し,血中濃度は健常者より遥かに上昇しているが,ナトリウム利尿ペプチドの投与・補充により顕著な治療効果が得られる。また,癌のような疾患では,リュープリンのように強力なアゴニストの持続的な投与,受容体刺激により,ホルモン依存性癌の成長抑制が可能となるため,強力かつ持続的なアゴニストが有用な医薬品となる。
 医薬品においては特定の作用に対して選択性が高いほどよいという概念が一般的である。望まれる特定の作用だけを発揮すれば十分で,それ以外の作用はむしろマイナスになるという考え方である。ペプチドは多様な生理作用をもち,研究が進むほどその作用範囲は広がるが,この特徴は医薬品開発ではむしろ障害と考えられてきた。しかし,化合物を主体とする医薬品でも,スタチンやアンジオテンシン受容体拮抗薬のように不特定の望ましい効果が強調される時代になりはじめた。生体は同じペプチドや物質を身体の随所で使用し,それらの作用は共通の生理的適応に収斂すると考えられるため,生体物質やその作動システムを利用するかぎりにおいては,多様な標的・作用を有することは決して欠点ではないであろう。
 このように考えていくと,生体内でペプチドが機能を発現する仕組みを時間軸も含めて十分に把握できれば,至適な作用点,制御法が自ずから明らかとなり,最も効率的なペプチド使用法,誘導体のデザインなどが可能となると期待される。ペプチドは,純度や投与量にさえ注意すれば副作用が発生する可能性はかなり低く,多様な機能を用いて生体全体を正常な状態に調整するため,短期的にコストが掛かっても長期的には身体に優しい医薬になることが期待できるとすれば,研究の意義や投資効果は十分にあると考えられる。 
 日本は生理活性ペプチド探索や合成において豊かな研究土壌を有し,哺乳類生理活性ペプチドの1/3以上が日本人の手によって発見されてきた。ナトリウム利尿ペプチド,エンドセリン,アドレノメデュリンなどのペプチドに続き,過去10年間にはオーファンGPCRの内在性リガンドとして,オレキシン,グレリン,アペリン,PrRP,メタスチンなどが次々に発見されてきたことは記憶に新しい。また,ヒトゲノムシークエンシングの完了により,関連領域の研究も急速に変貌を遂げようとしている。タンパク質研究においてもプロテオーム解析が世界各国で開始され,タンパク質総体の解析結果が研究情報として利用できる時代になりつつある。これより遅れるものの「ペプチドーム」という言葉をわれわれも作り出し,組織や細胞が産生するペプチドの全体像についても,少しずつではあるがその姿が見えはじめてきた。さらに,生理・病態生理の解析技術も進歩し,ペプチドの機能解析も生理的意義の解明に着実に近づきつつある。まさにここ数年でペプチド研究は変貌を遂げ,新時代を迎えるものと期待している。しかし,臨床応用から考えると,多数のペプチドが発見され研究が熱心に行われているにもかかわらず,日本発で治療や診断に使用されているペプチドはANPやBNPなど非常に少ない。ドラッグデリバリーに関する近年の進歩などに基づき,ペプチドの創薬研究が大手,ベンチャー企業を問わず積極的に開始されている海外とは対照的に,国内ではペプチドは医薬品には適さないという考え方が根強く,研究開発への投資が限定的であるためと考えられる。
 本書はこれらの問題点を打破し,応用面においても日本のペプチド研究を発展させる一助となればと考え企画した。実際,ペプチドの医薬品化を推進するには,化学,生物学,生理学から薬学,基礎医学,臨床医学,医薬品開発までの幅広い視点と情報が必要であるが,これらを系統的に学べる所はなく,ペプチド発見から創薬に至る現状と問題点を記述する成書も存在しなかった。本書は,ペプチドや疾患マーカーの探索・発見から,新しい生理・病態生理的機能の発見と応用,医薬品化の問題点と解決法,ペプチド医薬の開発と臨床応用までの各段階でテーマを決め,日本における第一線の研究者や専門家,さらに海外の6グループの専門家に執筆いただいた。特に,医薬品医療機器総合機構の審査官の方々に,実際に審査する立場から製剤,非臨床試験,臨床試験までの流れとペプチド医薬品の問題点,特殊性を詳述いただくことができた。ペプチド医薬品の開発にはまだ明快でない点が多く,非常に参考になると考えられる。これらの情報は,生理活性ペプチド以外の,例えばアルツハイマー病における異常ペプチド蓄積への対策,細胞外マトリクス断片ペプチドなどによる癌転移や血管新生の制御,創傷治癒など,ペプチドの医薬品化に広く適用可能と考えられる。創薬への問題が山積していることは否定できないが,何とか日本のこの豊かなペプチド研究の土壌を生かし,ペプチドからの創薬,ペプチドの産業化へと発展する起点となれば幸いである。
 最後に多忙にもかかわらず執筆を快くお引き受けいただいた執筆者の先生方,本書構成に関する情報を提供いただいた協和醗酵・山崎基生博士,武田薬品・森正明博士,アスビオファーマ・林友二郎博士,編集に協力をいただいた国立循環器病センター・加藤久雄元部長,そして本企画を取り上げていただいたメディカルドゥ大上均社長にこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

国立循環器病センター研究所所長 寒川賢治
国立循環器病センター研究所薬理部部長 
南野直人