序文
  今,新しい創薬パラダイムの中心である薬物動態特性の至適化に注目!


 
急激に進展したゲノム解析,あるいはコンピュータを使ったin silicoスクリーニング,統計解析手法の成果によって,医薬品開発はかつての「セレンディピティ」から,ターゲットを明確に,臨床効果も予測したうえで創出する時代に入りつつある。すでに5年ほど前から,現在の創薬過程,創薬教育は大きなパラダイムシフトを迎えていると言われはじめている。創薬に関わる研究者は,自らの狭い研究領域にとどまるべきではなく,広い目で創薬科学を見渡すべきである。これまでの縦割りの創薬科学ではなく,縦横無尽にいくつかの領域を融合させた新しい研究領域を確立していく必要に迫られている。言い換えれば,学問の枠組みにとらわれないで,新しい発見や技術を速やかに創薬へと展開していくことにより国際的なリーダーシップをとることのできる人材の養成が必須である。このような創薬の時代において,薬物動態特性の解析は新しい創薬パラダイムの主役となる役割を果たすべきであると思っている。以下に,その内容を説明したい。
  リード化合物創製のためのコンビナトリアルケミストリーの発展により,数多くの化合物を短時間で作り,ヒトにおける薬理活性のみならず薬物動態学的特性の優れた化合物を開発初期のスクリーニング段階でピックアップしようというハイスループットスクリーニングが,ここ10〜15年ほどの間に急速に展開してきている。それまで,国の内外を問わず,in vitroの薬効の強さ(例えば,受容体,酵素などに対するIC50, Ki値など)のみを指標に医薬品の開発を進めていった場合,それらの薬物動態的特性の悪さ(バイオアベイラビリティの低さ,標的への移行性の悪さ,薬物相互作用の受けやすさ,個人差の大きさ,病態の程度による変動の大きさなど)のために開発が中止になることが続出していた。こうした経験を通して,また以下に示すような近年のキーテクノロジーの発展とあいまって,開発の早い段階で薬物動態特性の至適化(optimization)の必要性について創薬に関わる研究者の認識が浸透してきている。すなわち,@分子生物学,細胞生物学の発展により,ヒト組織,オルガネラのみならず,ヒト型酵素,トランスポーターを発現させた細胞の利用性が高まったこと,ALC/MS/MSなどのように感度の高い,分離能の高い分析法が開発されたことにより,低い血中濃度の測定が可能となったこと,B遺伝子多型の解析が迅速にできるようになり,かつ変異タンパクの発現系の作製技術の進歩とあいまって,変異タンパクの機能変化を容易に測定できるようになったこと,C各種オミックスの技術が発展してきたこと,などを挙げることができる。
  医薬品開発過程において,薬物動態研究は一時期,厚生省への申請データをとるためのルーチン作業の一環として捉えられていたことがある。しかしながら,近代の医薬品探索・開発においては,薬物動態研究者が薬理学,毒性学,医薬品化学の部門の研究者と共同することが,よりよき化合物の選択に必須であり,医薬品開発において中心となるべきであると認識されている。今こそ,薬物動態研究者が他の部門の研究者にその重要性を理解させる時である。また,他の部門の研究者も薬物動態解析の重要性を今以上に認識すべき時である。私は製薬企業の薬物動態研究者と議論をしている時,手持ちの薬物動態データを十分に解釈しておらず,したがってヒトでの予測が甘くなっていることにしばしば気づく。多くの場合,得られた体内動態パラメータの絶対値を知ることにより,@どのような要因(肝血流速度,肝での代謝能力,肝取り込み能力,胆汁排泄,尿中排泄能力,血中タンパク結合性)が体内動態の個体差をどの程度生じる原因になりうるのか,A種々の病態時(肝障害,腎障害)および他の変動要因(喫煙,飲酒,年齢,妊娠など)の存在するときに薬物動態の変動はどの程度生じるのか,Bヒトでの体内曝露量を予測するには,探索開発のそれぞれの過程において,どのような方法論を用いるべきであるのか,Cどのような併用薬との相互作用を考慮すべきか,Dどの種類の酵素,トランスポーターの遺伝子多型の影響をどの程度受けるのか,E活性代謝物の生成による毒性の出現の可能性をどのように予測するのか,などの種々の問いかけについて,ある程度の解答を出すことが可能になる。
  すでに編者である杉山の研究室が中心となり,演習を中心とした『ファーマコキネティクス-演習による理解-』(杉山雄一,山下伸二,加藤基浩 編,南山堂,2003)を出版した。引き続き,臨床開発に焦点をおいた『臨床薬理に基づく医薬品開発戦略』(杉山雄一,津谷喜一郎 編,廣川書店,2006)を出版している。今回は,さらに創薬の全過程における薬物動態研究の方法論,解析法を記述する中で,近年のトランスポーター研究の進歩,in silico解析技術の進歩,さらには動態研究者と医薬品化学(メディシナルケミストリー)研究者のフィードバックの重要性,前臨床から臨床へのトランスレーション,毒性の予測における薬物動態研究の必要性,に焦点をあてた編集をこころがけた。執筆はすべて,それぞれの領域の最先端で活躍中のアカデミア,企業研究者にお願いした。貴重な時間を割いて快く引き受けて下さった諸氏に心よりお礼を申し上げたい。
  本書は,製薬企業における研究者(薬物動態,製剤,DDS,医薬品化学,薬理,毒性,臨床開発),大学において創薬に関わる基礎・実用研究を志している研究者,トランスレーショナルリサーチに従事する医学・薬学・工学の研究者,病院薬剤師の皆さんに読んでいただきたいと考えている。また,系統的に学べる教科書としてのみならず,座右において研究・業務の際の手引書となれば幸いである。

東京大学大学院薬学系研究科 杉山雄一