序文
  今, ウイルスにたよらない遺伝子導入が熱い

 

 ヒトゲノムシークエンスの解読とバイオインフォマティクスの進歩によって, 生物医学研究は遺伝子レベルの時代に入った。働きのわかっている遺伝子を細胞内に導入することで, 遺伝子を操作, 細胞機能を解析する。近年, RNAの働きを配列特異的に抑制するRNA干渉技術が発見され, small interference RNA(siRNA)を利用した遺伝子の特異的なsilencing技術によって, 細胞機能の解析, 病気の治療法に新たな展開が期待されている。加えて, デコイDNAを利用して, 核内で遺伝子の働きを抑制することもできるようになってきている。また, タンパク質をコードしていないnon-coding RNA(ncRNA)が生命現象に大切な役割を演じていることもわかり, ますます遺伝子レベルの解析の必要性が高まってきている。このような状況の中で, 核酸物質を細胞内に導入し, 細胞内での動きを制御することによって, その発現を増強させるための材料, 技術, 方法論が, 今後, より必要不可欠となっていくことは疑いない。また, 核酸物質を用いた遺伝子治療の効率を上げるためにも, 物質の体内での動きをコントロールすることも必要となる。
 これまで, ウイルスを利用することによって, 遺伝子の高い細胞内導入とその発現効率の増強が実現されている。しかしながら, ウイルスの利用には特殊な研究施設が必要となる。また, ウイルスの体内動態をコントロールすることは難しく, かつウイルスの直接投与による遺伝子治療の臨床応用へのバリアは高い。遺伝子導入によって生物機能を増強・改変された細胞を用いた細胞移植治療も考えられているが, ウイルスを利用した臨床応用は, ウイルス自体のもつ毒性・抗原性などの観点から, 現実的とは言いがたい。そこで, ウイルスに頼らないで, 高い遺伝子発現および治療効果を得たいと誰しも考えるであろう。ウイルスを用いない遺伝子発現のための材料,技術, 方法論は, これまで「非ウイルスキャリア」という名のもと, 研究開発が行われている。ところが, それらの研究は, 材料学, 薬学, 医学の異なる分野の研究者によって独自に進められ, お互いの人的, 学術的な交流もほとんどないのが現状である。また, この分野の必要性が高まっているにもかかわらず, この研究領域についてまとめた成書も見当たらない。
 今さら言うまでもないことであるが, 非ウイルスベクターの研究開発は, 生物医学, 工学, 薬学, 理学などの複数の異種の学術分野が有機的に融合することによってのみ, その実現が可能となると考えられる。これまでにも, ウイルスの高い遺伝子発現効率を超える非ウイルスベクターの設計を目的として, 様々な研究開発が進められてきている。そのいずれの研究も重要であることはいうまでもない。しかしながら, 今後, 非ウイルスベクターが関係する範囲はより広くなり, これまで以上に多くの研究分野, 基礎的知見, 技術,関連事項などが必要となることは疑いない。本書を編集した1つの動機は, このような時代の流れを考えて, 今後, 非ウイルスベクター研究開発に必要となるであろう材料, 技術, 方法論, 関連事項, あるいは将来の方向性などに関して考えていただくための少しの助けにでもなればと考えたからである。
 本書の構成は第1章から3章までの遺伝子導入のための「材料, 技術, 方法論」と第7章の「今後の方向性を考えるための関連知識,事項」からなっている。第1章では,材料について, 第2章ではドラッグデリバリーシステム(DDS)技術, 方法論, 第3章では物理刺激について, 第4章では, 将来, 非ウイルスベクター研究開発に関連していくであろう分野・領域に関する周辺必要事項について, それぞれの第一線で活躍されている方々に執筆していただいた。いずれの項目に対しても, 分野・領域における世界の研究動向, 日本の位置づけ, 執筆者の最新の研究成果やその関連事項, 将来展望, 加えて, 生物医学研究・医療との関連性などについて簡潔に述べられている。単に, 遺伝子導入法のまとめというだけではなく, この科学技術がいかに多くの分野・領域の思考とサポートが必要であるのかを具体的に示すことも, 本書を編集したもう1つの動機である。
 本書がウイルスを用いない遺伝子導入についての最近の試みの整理と新たな理解, この科学技術を発展させるための分野・領域の新たな発掘, さらには読者の皆様と遺伝子導入法との係わりの新たな発見などに少しでも役立つことを願っている。最後に, 本書の趣旨を理解し, 貴重な時間を割いて執筆していただいた諸氏に心よりお礼を申し上げる。

北海道大学大学院薬学研究科教授 原島秀吉
京都大学再生医科学研究所教授 田畑泰彦