序文

 ゲノム配列解読技術の著しい発展により,疾患ゲノムデータ解析の新たな可能性が拓かれた。1人あたり1000ドル以下という低コストでの全ゲノム配列シークエンスが可能となり,アカデミア研究だけでなく医療現場も巻き込む形で,大容量の疾患ゲノムデータが日々出力される時代が到来している。大規模疾患ゲノム解析の実施は,数百を超えるヒト疾患における疾患感受性遺伝子変異のカタログをもたらした。個別化医療のかけ声のもとに,ゲノムデータを患者自身の健康増進のために活用する試みも始まっている。ヒトゲノム情報の大規模化と目的の多様化が急速に進んだ結果,ゲノムデータ解析環境の構築や解析手法の開発,人材育成の重要性が高まっている。一次的なゲノムデータ解析によるゲノム配列情報の取得だけでなく,得られたヒト疾患ゲノム情報の適切な解釈と社会実装をどのように進めるかが喫緊の課題である。
 遺伝統計学(statistical genetics)は,遺伝情報と形質情報の結びつきを,統計学の観点より評価する学問分野である。遺伝学と統計学はかねてより深い関わりがあり,遺伝統計学は双方の学問の発展に寄与する形で進化を遂げてきた。近年では,疾患ゲノムデータを多彩な生物学・医学データと分野横断的に統合し,疾患病態の解明や新規ゲノム創薬,個別化医療へと活用する際に有用な学問としても注目を集めている。しかし,遺伝統計学を担う人材は本邦では特に少なく,学問としての知名度も十分とは言い難い状況にある。
 このような背景を元に,本特集号「遺伝統計学と疾患ゲノムデータ解析−病態解明から個別化医療,ゲノム創薬まで−」を企画した。
  • 学問の学びの最初の一歩は,背景となる基礎理論の丁寧な理解から始まる。第1章では,遺伝統計学の基礎理論について,日本を代表する専門家の先生方にご執筆いただいた。
  • ゲノム配列解読技術の発達により,大容量かつ多彩なゲノムデータが得られるようになった。エピゲノム・メタゲノムといった多彩なオミクス情報の展開も著しい。これらの最新技術の原理を理解し,その特性を活かしたデータ解析を行うことが重要である。第2章では,最新のデータ解析技術を駆使して活躍されている若手研究者にご執筆いただいた。
  • ゲノム情報の適切な社会実装を実現するためには,コホート研究,データシェアリング,個別化医療,ゲノム創薬など,ゲノム情報と社会との接点に寄り添った活動が重要である。第3章では,本邦における社会実装の最前線での取り組みをご紹介いただいた。
  • 一般論として,既存のデータ解析手法を適用することより,新たなデータ解析手法を生み出すほうが難しい。多くの研究者に認知され広く使われる手法を生み出すことは,なおさら困難である。しかし国際的なイニシアティブを獲得するためには,新規解析手法の構築においても存在感を発揮することが必須である。第4章では,ゲノム・エピゲノム解析とがんゲノム解析に分けて,独自の解析手法の開発者を対象にご執筆いただいた。
  • ゲノムデータ解析の現場の声を伝える目的で,新しい試みとして,本章とは別にコラムを設けた。
 執筆にあたっては,アカデミアだけでなく企業や政府機構も含め,各所でご活躍されている若手の先生方を中心に構成させていただいた。ご執筆いただいた皆様にこの場を借りて御礼を申し上げたい。本特集が,ゲノムデータに関わる皆様のお役に立ち,遺伝統計学の発展に少しでも貢献できれば幸いである。

大阪大学大学院医学系研究科 遺伝統計学  岡田随象