序文

【遺伝子治療の復活】
 2015年のJapan Prizeは遺伝子治療に貢献した2人,Theodore FriedmannとAlain Fischer両博士に贈られた。Friedmann博士は,1970年代に遺伝子治療の概念を提唱した功績により,Fischer博士は1990年末にX染色体連鎖性重症複合免疫不全症(X-SCID)の遺伝子治療を成功させFriedmann博士の概念を具現化した功績が称えられた。これは遺伝子治療分野にとって非常に明るいニュースであり,遺伝子治療に携わる研究者は大いに勇気づけられた。何故なら,2000年代は遺伝子治療にとって冬の時代だったといっても過言ではないからである。Fischer博士の遺伝子治療は確かに成功したが,一部の患者に治療後約3年で白血病が発症し1人が死亡した。レトロウイルスゲノムの宿主ゲノムへの挿入によるがん遺伝子の活性化が原因であった。その他の遺伝性疾患やがんにおいても確実な成功例はみられなかった。一方で,iPS細胞の開発や細胞療法の普及によって再生医療に世間の注目が集まって,遺伝子治療は次第に影が薄くなった。しかし,2010年前後からの遺伝子治療の進歩は著しく,レーバー黒内障, アデノシン脱アミノ酵素 (ADA) 欠損症, 血友病 B, 副腎白質ジストロフィーなどの遺伝性疾患の遺伝子治療において,レンチウイルスベクターやアデノ随伴ウイルス(adeno-associated virus:AAV)ベクターの開発・改良,造血幹細胞の利用などによって相次いで多くの成功例が報告された。2012年には西欧で初めての遺伝子医薬品(リポタンパク質リパーゼ遺伝子をもつAAV ベクター)が承認された。また遺伝子治療臨床研究の60%以上を占めるがんについても,腫瘍溶解ウイルスの発見や開発,治療遺伝子を挿入した腫瘍溶解ウイルスの構築,キメラ抗原受容体(chimeric antigen receptor:CAR)-T細胞の開発によって成功例が増加しており,がんに対する遺伝子医薬品としての承認も間近い状況である。わが国においても,遺伝子治療の企業治験や医師主導治験がようやく増えて,有望な遺伝子治療法もがんや循環器疾患で育ってきている。今まさに遺伝子治療が復活し,今後,医療への貢献はますます大きくなり,企業の参画も期待できる状況になってきた。今回,遺伝子医学MOOKで特集号を組ませていただいた理由である。

【遺伝子治療の歴史】
 遺伝子治療の臨床研究がガイドラインに則って初めて開始されたのは1989年で,このときはマウスの白血病ウイルスを組み換えたレトロウイルスベクターを用いて,がん患者より取り出した末梢のT 細胞に薬剤耐性遺伝子を標識として導入し,これを患者の血液中に戻し,がん組織への集積を調べるという内容であった。これは治療をめざさない遺伝子標識法であるが,結果として,この方法の安全性が担保された。そこで1990年,アメリカ国立衛生研究所の研究者を中心としたグループが,免疫不全症の1つであるADA欠損症の女児に,全く上述と同じ方法で, 遺伝子を治療用のADA 遺伝子に変えたレトロウイルスベクターを用いて末梢のT 細胞に遺伝子導入し,これを患者の血液中に戻した。体外で遺伝子導入した細胞を体内に戻す治療法はex vivo 遺伝子治療である。この患者は見事に免疫不全症から回復し,免疫不全のために隔離されることなく日常の生活を送れるようになった。この1例の成功により世界に遺伝子治療フィーバーが巻き起こった。ADA欠損症のみならずその他の遺伝性疾患や,特に多くを占めるがんなどに対してex vivo 遺伝子治療だけでなく,直接遺伝子を体内に導入するin vivo 遺伝子治療が,ウイルスベクターや非ウイルスベクターなど様々な遺伝子導入法を用いて行われたが,期待した結果は得られなかった。1995年のOrkin-Motulsky reportでは「遺伝子治療が成功した例は認められず,さらなる基礎研究が必要」と厳しい評価と警鐘を受けた。一方で,アデノウイルスベクターの大量投与による死亡事故(Gelsinger事件)や利益相反の問題,プロトコール違反など多くの問題点が浮かび上がってきた。その中で,1999年にはFischer博士らによるX-SCID遺伝子治療の成功やHigh博士らによるAAV ベクターを用いた血友病B遺伝子治療の好成績が相次いで報告されたが,前者は白血病の誘発,後者はベクターの抗原性の問題で中止を余儀なくされた。そして上述した冬の時代が来る。しかしその間は,復活のためのインキュベーションの時間であったかもしれない。研究面では,単に遺伝子導入法の開発だけが遺伝子治療と思われていた1990年代から脱皮し,基礎生物学に根差したサイエンスが発展した。例えば,レンチウイルスとレトロウイルスのゲノム挿入サイトの解析,AAVの血清型とその特性(抗原性や組織親和性),次世代シーケンサーを用いた迅速なゲノム解析技術の開発は,多くの遺伝性疾患の遺伝子治療を成功に導いている。がん細胞でのシグナル伝達や遺伝子発現機構の解析,ウイルス複製機構の解明は腫瘍溶解ウイルスの発展を可能にした。T細胞のシグナル機構の解明や免疫チェックポイントの研究は,CAR-T 細胞や新たな免疫遺伝子治療を産み出している。規制科学の分野においては,審査制度の迅速化が各国で進むとともに,わが国でも質の高い治験を行う体制が築かれつつある。特に,わが国では再生医療等製品の早期承認制度が承認され,遺伝子治療製品もその対象となり,早期の実用化が図れる道が開かれた。

【将来に向けて】
 現行の遺伝子治療は,正常な遺伝子をあたかも薬のように使って細胞機能の補充や増強を行う方法であった。一方で,ゲノム改変やゲノム編集法が続々と開発され,変異遺伝子を置換して正常化することが現実的になってきている。その1つは,エイズ患者のT 細胞において,ヒト免疫不全ウイルスの受容体であるCCR5 遺伝子を人工制限酵素(zinc finger nuclease)で欠失させ,そのT 細胞を患者に移植するエイズ治療の臨床試験が進んでいる。さらに本年4月には,中国の科学者が,ヒトの異常な受精卵でCRISPR/Cas9法による遺伝子修復のモデル実験を行ったとする報告がなされた。ヒトの生殖細胞の遺伝子改変による遺伝子治療臨床研究は日本を含む多くの国で禁止されているが,基礎研究としてどのように規制するかが現在,国際的に大きな課題となっている。もちろん遺伝子修復のためには,現行の方法はまだまだ未熟な技術であるが,今後の発展によっては大変大きな福音を人類に与える可能性がある。しかし一方で,遺伝子改変による影響は世代を超えて伝わり,また個人のレベルにとどまらないため,科学的・倫理的に極めて重大な問題をわれわれに投げかけている。このように多くの科学技術と同様,遺伝子治療技術の発展は両刃の剣であり,人類がその恩恵に浴するように導くためには,社会への客観性ある正しい情報提供と啓発活動を繰り返しながら,社会のコンセンサスを作り上げるという活動も遺伝子治療の最も大きな責任であることを忘れてはならない。

大阪大学大学院医学系研究科教授,日本遺伝子細胞治療学会理事長 
金田安史