序文
 

  「脳内環境」という言葉は,新学術領域「脳内環境- 恒常性維持機構とその破綻」を立案するための議論の中で発案された造語である。山中宏二先生(名古屋大学),木山博資先生(名古屋大学),樋口真人先生(放射線総合医学研究所),服部信孝先生(順天堂大学),内山安男先生(順天堂大学),川上秀史先生(広島大学),内匠 透先生(理研脳センター),三澤日出巳先生(慶応大学),漆谷 真先生(京都大学),加藤英政先生(埼玉医大)と,神経変性疾患・精神疾患研究において,脳内の非神経細胞の役割に注目し,関連研究者が集まって議論できる組織を作るべき時機が到来したとの共通認識のもと,新学術領域への応募の準備を2010 年秋から始め,2011 年度に首尾よく採択された。本書の寄稿者はその新学術領域「脳内環境」の計画班員と公募班員の先生方から構成されている。
 新学術領域「脳内環境」のホームページには「脳内環境の目指すもの」と題して,下記のようにこの領域の目的を説明した(http://www.neurol.med.kyoto-u.ac.jp/brainenvironment/)。
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 これまでの脳神経科学の研究の主役はニューロンでした。たとえばアルツハイマー病やパーキンソン病をはじめとする神経変性疾患では,「なぜニューロンが死ぬのか」という問題に研究の焦点があてられ,その過程で,異常タンパク質の蓄積,オルガネラの機能障害などの神経変性メカニズムが明らかになってきました。 しかし,いったん始まった変性過程がどのように進行するのか,なぜ病変が一か所にとどまらずに広がっていくのかが追求された結果,グリア細胞が関わる炎症の役割や,神経細胞から周囲の細胞への変性タンパク質の伝播という予想外の生命現象が新たに見出されました。つまり,これまで脇役と考えられていたグリア細胞や,ニューロンと周囲の細胞の相互作用の重要性が認識されるようになったのです。
 本領域ではこのような脳内の細胞間相互作用によって形成・維持される「脳内環境」の解明に焦点を当てます。「脳内環境」の理解には,グリア神経生物学,神経発生・再生医学,神経内分泌学等の基礎神経科学や,細胞・組織・個体レベルでの分子イメージングの手法が不可欠です。本領域では「脳は多彩な細胞群からなるコミュニティーである」との共通認識のもと,基礎神経科学者と疾患研究者が積極的に共同研究を行い,「脳内環境」がいかにニューロンの健全性を保っているかを明らかにします。
 同時にこれまでニューロンの解析だけでは理解できなかった脳内環境の破綻により生ずる精神・神経疾患の病態を解明し,新たな発想に基づく疾患バイオマーカー同定や治療戦略創出を行います。
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 新学術領域「脳内環境」では脳内環境破綻をきたす神経細胞内メカニズムの解明を担当するA01 班「神経細胞内メカニズム」,脳内環境破綻と毒性転換の伝播メカニズムの解明を担当するA02 班「神経外環境」,イメージング技術の活用による脳内環境可視化を担当するA03 班「イメージング」の3 班構成で研究を推進し,多くの成果を挙げてきた。本領域のアドバイザーとして貴重なご指導をいただいてきた金澤一郎先生(国際医療福祉大学),田中啓二先生(東京都医学総合研究所),岡野栄之先生(慶応大学)にこの場を借りて感謝申し上げたい。
 「脳内環境」を,神経細胞とそれを取り巻く環境を合わせて包括的に解明するという流れは海外でも注目されており,例えば米国NIH ではneural environmentといったグラントカテゴリーにより当該研究領域が支援されている。さらに本年, 米国神経学会議(AAN) が伝統的な学会雑誌“Neurology” に加えて, オープンアクセスジャーナルの“Neurology:Neuroimmunology and Neuroinflammation”を発刊したことも本分野の世界的な重要性と今後の発展性を物語っている。本書が読者に「脳内環境」分野のおもしろさと熱気を伝え,この分野への若手研究者の参入のきっかけとなることを祈っている。

京都大学大学院医学研究科臨床神経学
高橋良輔