序文
 

1980 年代,医学部学生だった私が2 年間通った東大医学部の生化学教室では糖脂質であるガングリオシドや,細胞内シグナル伝達脂質であるイノシトールリン脂質を取り扱う研究が行われていた。研究室内には,脂質抽出用の大きなガラスカラムやエバポレーターが林立し,クロロホルム臭が漂っており,生物の研究室というよりは化学の研究室の様相を呈していた。数kg という単位の臓器から,大量の有機溶媒を用いたBligh & Dyer 法で糖脂質を精製していたことが懐かしく思い出される。それから30 年後,最近立ち上げた私の研究室にはロータリーエバポレーターも有機溶媒臭も存在しない。その代わりに存在感を示しているのは,三連四重極型の質量分析計である。高感度の質量分析計と脂質のイオン化法の開発は,脂質の研究手法を大きく転換させた。従来の薄層クロマトグラフィーや液体クロマトグラフィーに比較して,現在では1000 倍以上の感度で脂質の定量を行うことが可能になっている。このため,実験のスケールを小さくすることが可能になったのみならず,これまでの手法では観察できなかった微量脂質の発見が相次いで行われるようになった。また,質量顕微鏡も大きく進歩し,組織内・細胞内での脂質分子の局在を観察することが可能となりつつある。 しかしながら,この最新の脂質研究法が生物学・医学研究者に広く広まったかと問われると,答えは「否」である。脂質の実験法の指南書として有名な日本生化学会による新生化学実験講座脂質1 .3 は,発刊が1990 年から1993 年である。一方で,核酸であるDNA やRNA,タンパク質を対象とした実験プロトコール本は毎年何冊も出版されている。他分野の研究者の多くは「脂質の研究にはなかなか手を出せない」と思っておられるようである。脂質の化学的な不安定さや特殊な実験法が必要なことも理由ではあろうが,個人的には,最新の解析法を記載した実験指南書が存在しないことが「脂質を縁遠くする」理由の1 つであると強く感じていた。生理活性脂質の重要性も次第に理解されるようになり,2011 年には文部科学省科学研究費の新学術領域研究に「脂質マシナリー」が採択された。これは,わが国における脂質分子を対象とした初めての横断的研究組織である。25 以上の研究室が参加し,密に連絡を取りながら脂質の研究を行う中で確立してきた脂質分子の実験法を紹介したいと思っていたところにタイミングよくこの書籍の企画の依頼があった。 たまに発行される脂質関連の特集もその多くは研究成果のレビューであり,実験法の解説本は存在しない。そこで,今回の企画では具体的な技術の解説と実験法の紹介に重きを置いた( 第1 章技術編)。タンパク質とは異なり,多くの脂質の構造は動物種を越えて保たれているため,ヒト以外のモデル動物を用いた脂質研究の結果がヒトに応用しやすいという特徴がある。そのため「脂質マシナリー」領域では,様々なモデル動物を用いた脂質研究が活発に行われている。そこで第2 章モデル動物編では,ゼブラフィッシュ,ショウジョウバエ,線虫を用いた脂質研究法の紹介を行った。第3 章では,生理活性脂質や細胞内シグナル伝達脂質を中心に,理解しておくべき基礎と最新の知識を,第4 章ではヒトやマウスを対象とした疾患・疾患モデルにおける脂質の役割に関する最新の知見を整理した。執筆者の多くは「脂質マシナリー」領域に所属する研究室のメンバーであり,企画の意図を十分にくみとっていただいたうえで執筆して下さったと感じている。質量分析計を用いた脂質の定量解析は日進月歩のスピードで進んでおり,本企画も現時点での解析法の紹介に過ぎないが,20 年以上にわたって脂質の解析に関する実験指南書が発刊されていないことを考えると,存在価値の高い書に仕上がったのではないかと自負している。本書がこれまで脂質になじみのない研究者の目に触れ,研究の一助になれば幸いである。 最後に,多忙な中,快く執筆を引き受けていただいた多くの執筆者の先生方,企画に関わっていただいた青木淳賢博士,杉本幸彦博士,村上誠博士,株式会社メディカル ドゥ社に心から感謝申し上げたい。
順天堂大学大学院医学研究科 生化学第一講座
文部科学省科学研究費 新学術領域研究 脂質マシナリー領域代表
横溝岳彦