序文
 

 わが国の医薬品産業をイノベーション産業としていくことは本当に重要なテーマであり,そのためには,医薬品規制改革,医療制度改革,横断的(システム型)研究の振興は必須である。また,疫学基盤や疫学研究(臨床疫学,薬剤疫学)の推進と,研究者や国民への啓発と理解向上も欠かせない。日本の人口は現在約1億3000万人であるが,30年後には9000万人台となることが予想されている。さらに,日本は保健衛生,医療の向上の成果から,世界史上まだどの国も体験したことのない未曾有の超高齢社会を迎えることになる。納税人口が現在に比べて少なくとも3/4以下になり(税収の低下),さらに医療や介護の必要な高齢社会となったとき(社会保障費用の増大),日本が国民の社会保障を維持していくためには様々な改革が必要であることは論を待たない。少なくとも人口が減る日本が税収を維持していくためには,国際的な基幹産業を育成し,外貨をしっかりと稼いでいくことは重要である。新興国からの追い上げや国際的な生活環境の変化から,現在の日本の牽引作業である自動車産業が必ずしも30年後に日本の牽引産業であり続けるかは疑問である。そのため,われわれは次世代の基幹産業が何かをしっかりと見極め,持続的なイノベーションの可能性を育て投資を続けていかなければならないのである。
 さて,次世代の基幹産業として有力な候補であるのが,医療・健康や医療用品である。日本人の長寿や健康観は世界からも高く評価され,また医薬品創出の能力も現時点では日本は世界のトップクラスにある。われわれが日本の強みを生かしていくためには,新規の医薬品や医療機器を創出し世界に発信していくこと,超高齢社会の中で健康の価値や質の高い医療を提供できるという実力を世界に示すことは重要である。健康の価値という意味では,日本で高齢者が健康で幸せな生活を送れるためのありとあらゆる努力をすれば,国際社会に対してその方法論やコンテンツを輸出することができるのみならず,世界の富裕層が日本に移住する,あるいは別荘を設営するようになるかもしれない。ひいては,彼らによって日本の税収も上昇し,また教育の観点からも英語による初等教育に協力していただくことができれば,日本が苦手とされている国際的視野をもった人材の育成にも役立つであろう。
 科学技術は人類を幸せにするか。電子や工学においては,その答えはイエスであろう。なぜならば,電子部品の小型化が可能にした携帯電話の発明は人間の生活や仕事のスタイルを変え,同じく電子部品の小型化とパッケージングの妙はiPodの発明によって音楽鑑賞に多様性をもたらし,半導体技術などがもたらした液晶テレビの発明によるテレビの薄型化は家庭のリビングの様相を変えたのである。このように,科学技術の進歩は人間の行動やスタイルを変化させることに成功している。私は,人間の行動が変わること(行動変容,behavioral change)をもたらすことを「価値観の創出」と定義づけることがあるが,まさにこれはシーズからニーズを生み出した科学技術のなせる業なのである。
 しかしながら,ライフサイエンス分野においては,このようにシーズからニーズが人類を幸せにするとはいえない。なぜならば,健康というものは個人個人の上限があり,成長戦略のようなものは必ずしも当てはまらない。例えば,裕福になって高級・高栄養なものを食べるようになると,個体の健康は損なわれる。また,いくら医薬品のシーズになるような物質を発見したとしても,そもそもその疾病領域に十分な医薬品・医療方法が存在しているのであれば,開発する意義は乏しいものになる。つまり,シーズからニーズのような考え方は必ずしも正しくないのである。重要なことは,人間が健康であるための,あるいは医療上充足していないことが何かということをニーズとして設定し,そこから研究開発に必要なシーズを見出すことである。健康・医療分野においては,科学技術の成果であるシーズありきでは,市場を形成し人間の行動変動をもたらすことは本来困難なのである。優れた研究成果を臨床応用するトランスレーショナルリサーチという取り組みは非常に重要であるが,より本質的に重要なことは,人類あるいは国民にとっての健康や医療のニーズが何なのかをよく調査・検討し,そこから必要な研究開発領域を選定していくことであろう。
 さて本書においては,医薬品や医療機器開発にかかる臨床研究の推進という観点から,総論部分では,医薬品開発の全貌,各種規制事項,研究機関におけるトランスレーショナルリサーチの支援,多くの場合に初期開発を担うことに必須となるベンチャー企業の現状とその支援の実際などについて,本邦で主要な取り組みをされている専門家の方々にご執筆いただいた。また,各論部分では,各種領域における医薬品・医療機器などの開発・応用をめざした臨床研究や事業化の取り組みについてご紹介をいただいた。
 また,臨床疫学と開発型の臨床試験とは,臨床研究の車の両輪である。開発型臨床試験の実施計画の作成にあたっては,適切なリサーチクエスチョンの設定,仮説の検証のためのプロセスとしての研究計画を作る必要がある。そのため,質の高い開発型の臨床試験を行うために,臨床疫学を学ぶことも重要である。本書の総論の部分では臨床疫学に関する基本的な考え方についても収載している。
 本書の総論部分および具体的事例を通じて,若手の研究者,学生や,これから医薬品などの開発に携わろうと考えている方々の取り組みの一助となることを期待する。

京都大学大学院医学研究科 川上 浩司