序文
  

 
昨年から今年にかけて,ケンブリッジ大学の至宝ともいうべき,ふたりの巨人すなわちM. Perutz博士とC. Mistein博士が逝去した.Mistein博士は言うまでもなく,モノクローナル抗体の開発者として今日のバイオサイエンスのひとつの大きな基礎を築いた人である.一方,Perutz博士は,ヘモグロビンおよびミオグロビンの結晶解析に基づいて鎌状赤血球症におけるアミノ酸一残基の変異が重篤な貧血症に至る分子的な基礎を明らかにして,ここから分子病という概念を打ち立てた人である.Perutz博士の業績は,今日の医学の発展に多大な影響を与えた.分子病はそれ以前の遺伝病という概念と融合し,今日では遺伝子病という概念が定着している.
 多くの疾患は癌を含めて遺伝子病であると言っても過言ではない.もっとも遺伝的な影響がないと考えられる感染症においてすら免疫系に関わる遺伝子の様々な多型性,場合によっては遺伝子機能異常によって重篤な症状を引き起こすことはよく知られている.また,同じ病原感染体に対しても一見健常な人の間で大きな感受性,症状の差が見られることもよく知られた事実である.今日,このようなことはすべての医学に従事する人にとって常識となりつつある.すべての病気は遺伝的背景と環境要因との相互作用によって引き起こされるということを知らない人はいない.医学に従事する人は実際の臨床現場の医師もコメディカルもこの認識を十二分に身に付ける必要があるのみならず,その背景を理解する必要がある.例えば,臨床検査データとしてなぜ遺伝的な背景を検査するのか,また個々の検査項目がなぜ必要になるのか,という理解はヒトの分子遺伝学の知識に基づいてはじめて可能となる.
 この遺伝的背景がとりわけ重要視されるのは,今日注目を浴びているいわゆる生活習慣病である.これは,長い間の環境要因と生体との相互反応が引き起こす生体の機能異常である.その背景として基本的には複数の遺伝子機能の組み合わせによって,ある人は発症が早くなったり,重篤になったり多様な症状を呈するのである.同じようにたばこを吸っていてもすべての人が同じ時期に癌に罹るわけではない.同じように毎日厚いビフテキを食べていても同じように動脈硬化になるわけではない.この疾患感受性遺伝子を求めて多くの研究者の間で熾烈な競争が行われている.その原因遺伝子が解明される日もそう遠くはないであろうが,その背景を知らずして第一線の臨床家も新しい遺伝子のどのような機能がなぜ病気につながるのかを理解することはできない.
 今日,注目されている医療として移植や再生医療などが考えられている.しかし,これも個人の遺伝的な背景と,その結果引き起こされる免疫応答の制御の理解抜きに医療現場での実施は不可能である.ヒトの多型性がどのようなものであり,それが免疫系にどのように影響するのかを知らずして実際の移植や再生医療の実施は不可能である.
 このように眺めてみると,今日分子遺伝学の知識なしに医療を行うことは極めて危険である.今日多くの遺伝子解析の結果が症例報告にも登場するようになっている.症例報告も理解できない,検査の意味も理解できない医師やコメディカルが誕生することはゆゆしき事態である.本書は今日の医学教育においては必ずしも十分に盛り込まれていない遺伝子医学の基礎を各分野の第一線で活躍するリーダーに執筆していただいたものであり,必ずやすべての医療従事者の座右の書として有益であると確信している.
 
京都大学医学部医学部長 本庶 佑