牛島俊和
国立がん研究センター研究所エピゲノム解析分野

 ゲノム医療の臨床導入が急速に進んでいる。ヒトゲノムのドラフト配列が発表されたのが2001年,その後,がんをはじめとする各種疾患での突然変異が加速的に明らかになり,ついに個人のがんの変異を調べて治療を決める時代になった。エピゲノムについても2010年頃から詳細な網羅的解析が行われるようになった。その結果,がんのみならず様々な疾患でエピゲノムの異常があることが明らかとなり,細胞リプログラミングの詳細を解析することも可能になった。ゲノム異常とは異なり,エピゲノム異常は薬剤により元に戻すことが可能で,一部のエピゲノム薬はすでに臨床の現場で使用されている。
 そもそもエピゲノムとは,生理的には同じ塩基配列をもつ細胞が様々な臓器の細胞に分化したり,生殖細胞を形成したりするための仕組みである(第1章)。生化学的には,主にDNAメチル化とヒストン修飾により担われる。DNAメチル化の発生や分化における重要性は1980年代から知られ,その異常が発がんの原因にもなりうると考えられるようになったのは1990年代のことである。一方,個々のヒストン修飾に遺伝子発現調節などの重要な意義があること(ヒストンコード)が唱えられたのはつい2001年のことである。ゲノムですべてがわかると信じられていた時代に,エピゲノムの役者が出揃い,ゲノム変化のみでは説明できない疾患が多数あることが認識された。エピゲノム医療がゲノム医療に融合してくる時はそう遠くはないと思われる。
 それでは,どのような医療分野にエピゲノムが重要なのか? 分化のための仕組みに異常があると,発達障害の原因となると考えられる。実際,DNAメチル化調節の異常でRett症候群が発症することが示され,その後も各種の先天異常症候群においてエピゲノム関連遺伝子の異常が明らかにされてきた(第2章)。後天的疾患としては,基本的にはモノクローナルな疾患で検体も比較的容易に入手できるがん研究が先行してきた。各種のがんにおけるエピゲノム異常やその意義が明らかになっており,すでに診断・治療への応用も開始されている(第3章)。
 がん以外にも,細胞機能が非可逆的に変化する疾患にはエピゲノム異常が関与している可能性がある。腸内細菌の影響により腸管の免疫細胞のエピゲノムが変化し,また腸上皮のエピゲノムの変化が腫瘍の発生と関連する(第4章)。神経系でも,エピゲノム異常がアルツハイマー病やハンチントン病などの神経変性疾患に関与する可能性が指摘されている(第5章)。代謝疾患では,糖尿病患者のランゲルハンス氏島でのエピゲノム異常や腎臓でのエピゲノム異常が知られる(第6章)。慢性炎症によりがん化につながるDNAメチル化異常が生じ,DNA障害・ストレスなどにより神経でのエピゲノム変化が生じ,高血糖により腎臓のエピゲノムが変化することは,エピゲノムの環境インターフェースとしての重要性を示している。
 エピゲノムのダイナミックな変化が生理的に必要なのが発生・生殖・リプログラミングである。生殖細胞の形成不全とエピゲノム異常の関連も知られている(第7章)。効率的なリプログラミング・分化誘導や,出来上がった細胞の安全性評価などにもエピゲノムは有用である(第8章)。そして,社会的にも重大な影響をもつのが「エピゲノムの変化が世代を超えて伝わるのか?」という課題である。親が受けたストレスを子孫が受け継いでよいのか? 世代を超えて伝わるためには,生殖細胞でのエピゲノムのリプログラミングから逃れる必要があるが,一部にはそのようなことが起こるのではないかというのが昨今の研究成果である(第9章)。
 これらの新しい知識を患者さんや社会に還元するには,エピゲノム状態を制御する必要がある。ゲノムの変化,すなわち突然変異を元に戻すよりも,エピゲノムを元に戻すことははるかに簡単で,すでに多くの薬剤が開発されている(第10章)。これらのゲノム医療に迫るインパクトを踏まえ,本特集では,様々な疾患・医療分野でのエピゲノム解析の状況を第一線でご活躍中の先生方にご紹介いただくことにした。