遺伝学と言葉をあらためて考える

櫻井晃洋
札幌医科大学医学部遺伝医学

 今回のテーマは「言葉」である。雑誌「遺伝子医学」,「遺伝子医学MOOK」のこれまでの特集の中でもある意味で異質のテーマと言える。
遺伝学の世界では,遺伝現象や概念を表すための多くの用語が用いられているが,他の医科学領域と同様,その多くは外来語に和訳語を当てたものである。漢字という表意文字を用いるわが国では,外来語に訳語を当てるに際しては,訳語としてどの漢字を当て,さらにどのように読ませるかで意図するメッセージが大きく変わることもありうる。また,同じ内容を表す言葉でありながら,専門家集団が一般社会で用いられているものとは異なる漢字を使用している場合もある。例えば一般に用いられる「繊維」という語は医学用語では「線維」である。これは体内の組織の一部であることを明確にし,無生物の細長物質と区別しているためとされているが,英語ではいずれも“fiber”であり,そのような使い分けは行われていない。
 また,それぞれの言葉は時代とともに意味する内容や社会の受容が変化する場合があり,これを理由として用語の変更が必要になる場合もある。医学において用語の変更が必要となる条件としては,用語が不正確であったり学術的に定義があいまいである場合や解釈・理解が変わった時,用語によって当事者が不快感を抱いたり尊厳を傷つけられたりする可能性がある場合などが考えられる。医学においても,本特集で紹介されているように「精神分裂病」が「統合失調症」に,「痴呆」が「認知症」に取って代わられたし,最近は日本小児科学会が「奇形」を含む医学用語の置き換えを提案しているが,これらはいずれも当事者が抱く語感に配慮した部分が大きい。
 遺伝学(genetics)は医学においてのみ扱われる概念ではなく,広く生物科学領域で対象とされ,かつ初等・中等教育でも教育されるものである。したがって,遺伝学における個々の現象や概念を表す語は極力単一の用語であることが望ましく,かつそれらの語は子どもから大人にいたる広い年齢層,様々な社会集団に共通に用いることができるべきである。しかしながら遺伝学においては,一般になじみのない専門用語が数多く用いられており,かつ同一の用語に対しても分野が異なると解釈が異なっていたり,同一の英語に異なる和訳が当てられていたりするなど,統一がなされていない部分が存在していた。特に動植物を主な対象とする生物科学における遺伝学と,人をその対象とする遺伝医学(人類遺伝学)においては,以前からその不統一性が認識され,可能な限り用語の整理を行おうという取り組みもなされていた。
 今回,遺伝用語に関する特集が組まれることになった背景には,遺伝医療の普及によって医療者・一般市民の区別なく多くの人が遺伝情報に触れるようになりつつある中で,遺伝の現象や概念を社会全体で正確に共有することの重要性が認識されていることと,それに関連して遺伝用語の改訂・変更が議論されていることがある。今回の特集では医学,遺伝学のほか,国語学を専門とする先生方やメディアの方など,様々な立場から遺伝用語について解説・考察していただいた。現在の遺伝用語に関する議論の全体像を理解していただき,今後の遺伝学とわが国の医療を含む社会全体の関わりを考えるうえで貴重な機会を提供できたものと確信している。