吉田雅幸
東京医科歯科大学先進倫理医科学・遺伝子診療科

 効率的なゲノム編集技術であるCRISPER-Cas9法の開発は,近年の遺伝子改変の技術の進歩の象徴であり,これまでの遺伝子改変技術と同様,その臨床応用については科学的妥当性と倫理的正当性の議論を避けては通れない。2018年9月28日,厚生労働省と文部科学省の有識者合同会議によって「ヒト受精胚に遺伝情報改変技術等を用いる研究に対する倫理指針(案)」 1) が示された。この指針は,「ヒト胚の取扱に関する基本的考え方」の再検討に関する総合科学技術会議の生命倫理専門調査会およびタスクフォースでの議論 2) を踏まえたもので,臨床応用は容認できないとしつつも,ゲノム編集技術を用いた生殖補助医療の基礎研究については限定的に認める内容であり,難病遺伝子疾患研究やがんなどの疾患研究についても今後検討することとなっている。世界的な研究展開の流れの中で,わが国でもゲノム編集技術を利用した受精卵の基礎研究が始まろうとしている。今回の特集は,このような時期に広く遺伝医学の臨床家・研究者にゲノム編集の現状と倫理的課題について共通の認識をもっていただくために企画したものである。
 遺伝子改変技術のヒトゲノムへの応用については,1990年代にヒトゲノム解読に向けて世界中で研究が進んでいた時期にも議論された。1997年に発表されたUNESCO「ヒトゲノムと人権宣言」 3) では,“象徴的な意味において,ヒトゲノムは人類の遺産である”とされ,当時の議論としては,ヒトゲノム改変につながる研究に対しては慎重な姿勢が示されていたと記憶する。これは当時の遺伝子改変技術の不確実性とそこからくる予想不可知な結果に対する懸念に加え,われわれがこのような命題に向き合い議論をする時間がまだ十分ではなかったことも影響していると推察される。現在注目されているゲノム編集技術では,その技術的な向上に加え,ヒトゲノムに関する膨大な知識の集積,ゲノム医療の進展など社会全体のゲノム認知度の上昇など複合的要因から,従来の遺伝子改変技術とは世界的な受け止め方も大きく変化している。
 ヒト受精卵の研究は,不妊・流産の治療にも役立つ一方,種々の先天性疾患の治療の可能性など「命の選択」という命題への議論が余儀なくされる課題でもある。この特集ではゲノム編集技術の受精卵研究への解禁前夜という時期に,もう一度ゲノム編集技術の科学的妥当性と倫理的正当性を中立的に解説し,今後の議論を意味あるものにしたいという思いから作られている。どのような倫理的議論もその基幹技術の長所・短所の現状と将来の発展性,さらには世界的な趨勢という様々な羅針盤なしには有意義にはならないからである。

参考文献
1) 厚生労働省, 文部科学省 : ヒト受精胚に遺伝情報改変技術等を用いる研究に関する倫理指針(案), 平成30年9月28日.
2) 総合科学技術・イノベーション会議 : 「ヒト胚の取扱いに関する基本的な考え方」見直し等に係る報告(第1次)〜生殖補助医療研究を目的とするゲノム編集技術等の利用について〜, 平成30年3月29日.
3) 3)第29回ユネスコ総会 : ヒトゲノムと人権に関する世界宣言, 1997.