巻頭言


松原洋一
 

東北大学大学院医学系研究科小児医学講座遺伝病学分野 教授


 一昔前は研究室レベルに留まっていた遺伝子解析研究の成果が,怒涛のような勢いで臨床の現場に取り入れられるようになってきた.今では遺伝子検査とは無縁な診療分野を探すほうが難しい.遺伝医学の進歩を現代の医療に反映させていくこと自体は大いに歓迎すべきことであるが,この急激な変容にリアルタイムで追いついていくには相当な努力が要求される.本特集号ではいくつかのトピックをとりあげ,臨床医学における遺伝子検査の現状と最近の動向を各専門分野のエキスパートに解説していただいた.限られた紙面ゆえ到底様々な分野を網羅することはできなかった.例えば,癌の遺伝子検査,薬剤感受性の遺伝子検査なども重要なテーマである.これらについては「遺伝子医学」の既刊号で特集されているのでそちらを参照されたい.
 遺伝性疾患の遺伝子検査については,米国の遺伝子検査オンライン・データベースGeneTest構築の中心となったPagen博士に寄稿していただいた.現在,遺伝性疾患は少なくとも数千種類が知られている.ヒトゲノム上の遺伝子数が3〜4万個であることを考えると今後さらに多くの「遺伝性疾患」(common diseaseの発症に関連するものも含まれるであろう)が「発見」されていくと推定される.これらすべての遺伝子検査をひとつの施設で行うことは,少なくとも現時点では不可能であり,検査情報のネットワークを整備し活用していくことが必要であろう.わが国でも米国のGeneTestに倣って「いでんネット」が稼動し遺伝子検査施設の情報を提供しており,今後ますますの充実が期待されている.しかしながらここで問題なのは,遺伝性疾患の遺伝子検査が保険適応を受けておらず,その財政的基盤が皆無に等しいという点である.多くの場合,大学の研究室が研究の片手間に臨床診断サービスを提供している.その疾患の遺伝子変異解析が研究段階にあるうちは比較的容易に遺伝子診断を引き受けているが,既にその段階を過ぎたものについては,各研究室が乏しい人材と研究費をやりくりしながら無償奉仕を行っているのが現状である.一部の疾患では,論文に遺伝子診断の記載があるだけで実際にそれを提供している施設がないものもでてきている.米国でも,頻度が低く採算ベースにのりにくい稀少疾患の遺伝子診断を誰がどのような形で提供していくかが大きな問題になっており,National Institute of HealthのOffice of Rare Diseasesなどで対応が協議されている(濃沼信夫監訳「遺伝子検査ガイドライン:アメリカ特別委員会最終報告書」厚生科学研究所刊,2000).わが国 でも早急に対応策を検討すべき時期に来ている.
 さらに,臨床検査としての遺伝子検査を見直すことも必要であろう.これまで,遺伝子検査は研究を主体とする施設で行われてきたが,そこには臨床応用に耐えうる厳しい品質管理の視点が欠けていたことは否めない.肝機能検査などの一般臨床検査に比べ,遺伝子診断にははるかに高い精度や再現性が要求されるものの,現在は玉石混交の混乱期にある.また,採算性・商業性という側面からの検討も,将来遺伝子診断を医療に定着させていくためには重要であろう.
 最後に,遺伝子検査が及ぼす社会的・倫理的な問題を忘れてはならない.これまで臨床遺伝学がおざなりにされてきたわが国の医療では,ともすると遺伝子解析への研究的興味だけが先行し,その背景に患者さんとその家族の悩みや苦しみ,そして人生が控えていることを忘れてしまう.倫理観が欠けたり,遺伝カウンセリング体制が伴わない遺伝子検査は,患者さんのメリットになるどころか不幸のどん底へ突き落とすだけの悪魔の所業になりかねない.医療関係者への臨床遺伝学の啓蒙と同時に,極めて貧弱なわが国の遺伝カウンセリング体制を少しでも欧米の水準に近付けていくことが急務である.

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