序文  細胞とその関連科学技術の観点から細胞移植治療を眺めてみよう

 
体は約200種類,約60兆個の細胞からできている。これらの細胞とその周辺環境,およびそれらの相互作用メカニズムに関する基礎生物医学の研究が進歩すれば,その研究成果を元に,すばらしい治療法の確立も夢ではないであろう。これまでにも,骨髄細胞,免疫細胞などの細胞を移植することで癌を治療する試みが行われている。ところが近年,移植治療に用いられる細胞の種類と対象疾患が増えている。すなわち,再生現象にかかわる細胞の生物医学の進歩によって,増殖・分化能力の高い前駆細胞や幹細胞が利用できるようになり,それらの細胞の再生誘導能力を活用することによって,様々な組織や臓器の再生修復治療が可能となってきている。 このような状況の中で,ますます再生誘導治療に大きな関心と期待が寄せられてくるのも当然のことである。再生誘導治療(一般的には再生医療と呼ばれている)には,細胞移植による生体組織の再生誘導アプローチと,外から細胞を与えることなく細胞の周辺環境を作ることによって生体組織の再生を誘導するという生体組織工学アプローチの2つがある。前者の成熟細胞や組織幹細胞を用いた細胞移植治療の臨床研究はすでに開始されている。細胞移植治療に関しては,すでに多くの読み物が出版されているが,現在,進められている組織・臓器に関するすべての試みを鳥瞰できるような本はない。そこで,現時点において,「細胞」という言葉をキーワードとして全体像をまとめてみることも大切ではないかと考えた。本書を編集した1つ目の動機は,全体像の整理とともに,細胞移植による再生誘導治療に必要となるであろう周辺科学・技術,関連事項,あるいは今後の細胞移植治療の方向性などについて考えていただくための少しの助けにでもなればということであった。この必要周辺技術の中で,前述した生体組織工学が重要な位置を占めている。
 わかりきったことであるが,再生誘導治療は,臨床医歯学,生物医学,工学,薬学,理学などの複数の異種の学術分野が有機的に融合することによってのみ,その実現が可能となる典型的な境界融合研究領域であると考えられる。これまでにも,再生誘導治療を目的として様々な分野の研究開発が進められ,そのいずれの研究分野も重要であることは言うまでもない。今後,再生誘導治療の包括する守備範囲はもっと広くなり,これまで以上に多くの研究分野,基礎的知見,技術,関連事項などが必要となることに疑いはない。細胞移植治療を実現させるためには,いかに多くの分野・領域の科学と技術のサポートと周辺環境の整備が必要となるのか,その具体的な内容を示すことも,本書を編集したもう1つの動機である。
 本書は,上巻と下巻の2冊構成であり,上巻の第1章から第3章までの「移植治療に用いる細胞とその周辺科学・技術」と下巻の第1章と2章の「細胞移植治療の具体例」と第3章の「細胞移植治療の周辺環境」からなっている。上巻では生物医学,生体組織工学研究について,下巻の第1章と2章では細胞の種類から見た細胞移植治療の現状について,それぞれの分野・領域の第一線で活躍されている先生方に執筆していただいた。下巻の第3章では細胞移植治療が実現化していくために必要な事項についてまとめた。
 いずれの項目に対しても,分野・領域における現在の世界的研究動向,日本の位置づけ,執筆者の最新の研究成果やその関連事項,将来展望,今後の方向性,加えて再生誘導治療の実現への課題などについて簡潔に述べられているはずである。
 本書が,再生誘導治療(再生医療)と種々の研究領域との接点の理解,細胞移植治療の現状の整理,細胞移植治療の中での再生医療の位置づけ,細胞移植治療の今後の方向性についての思考などに少しでも役立つことを願っている。最後になってしまったが,本書の趣旨を理解し,貴重な時間を割いてご執筆いただいた諸氏に心よりお礼を申し上げます。

京都大学再生医科学研究所 田畑泰彦